東京地方裁判所 昭和35年(刑わ)3503号 判決 1965年4月27日
被告人 青木益夫 外二一名
主文
被告人青木益夫を懲役一年、
被告人阿部真一を懲役一年、
被告人安東仁兵衛を懲役一年、
被告人飯島侑を懲役十月、
被告人岡部武を懲役一年、
被告人女屋栄一を懲役一年、
被告人石井裕を懲役一年、
被告人黒羽純久を懲役一年六月、
被告人小林幸平を懲役八月、
被告人清野英輝を懲役一年六月、
被告人武田郁三郎を懲役一年、
被告人津金佑近を懲役十月、
被告人中川義和を懲役一年、
被告人中西功を懲役一年、
被告人中村貢吾を懲役一年二月、
被告人長谷川浩を懲役一年二月、
被告人馬場正夫を懲役一年、
被告人舟生嘉男を懲役十月、
被告人松田武蔵を懲役一年二月、
被告人山下孝順を懲役一年、
被告人山本清治を懲役一年、
被告人渡辺光男を懲役一年
に各処する。
被告人ら全員に対し、本裁判確定の日から各三年間右各刑の執行を猶予する。
訴訟費用中、証人相原明、同松岡一敏、同串原勝人、同田島晴雄(ただし昭和三七年一一月二八日分)に各支給した分は被告人安東の負担とし、証人寒河江利雄、同関谷政英、同渡辺昌信、武田昌人、同三浦喜代之、同児矢野晨二、同中屋敷澄香、同国分利正、同星野敦、同穴田辰三郎、同薗部博喜、同森杉美宣に各支給した分は被告人青木、同中川、同山本の連帯負担とし、その余は、証人中沢章に支給した分を除き、全部被告人ら全員の連帯負担とする。
理由
第一被告人らの経歴または地位等
被告人青木益夫は、昭和三二年三月桐生高等学校を卒業後、同年四月東京教育大学文学部史学科に入学し、その後昭和三五年六月本件発生当時、同学部四年に在学して文学部自治委員をしていたもの、
被告人阿部真一は、昭和二三年六月日本鋼管株式会社川崎製鉄所(以下川鉄という。)に旋盤工として入社し、間もなく同会社川崎製鉄所労働組合(以下川鉄労組という。)に加入し、本件当時には、安全衛生課所属の衛生係をしていたもの、
被告人安東仁兵衛は、本件当時日本共産党(以下日共という。)東京都委員会において非常勤の教宣担当委員をしていたもの、
被告人飯島侑は、本件当時日共中央委員会青年学生対策部の部員をしていたもの、
被告人岡部武は、本件当時日共横須賀三浦地区委員会において副委員長をしていたもの、
被告人女屋栄一は、昭和三二年三月私立城北高等学校を卒業後、法政大学に入学し、昭和三五年五月二七日同大学社会学部を除籍されたが、同年六月二一日をもつて再び復学し、本件当時同大学社会学部自治会委員長をしていたもの、
被告人石井裕は、昭和二四年一〇月川鉄に試験工として入社したが、本件当時同製鉄所検査課に所属して川鉄労組における組合大会代議員をしていたもの、
被告人黒羽純久は、昭和三〇年三月東京都立西高等学校を卒業後、昭和三一年四月東京教育大学文学部英文科に入学し、本件当時同学部四年に在学し、同学部自治委員をしながら、東京都学生自治会連絡会議(以下都自連という。)代表委員をしていたもの、
被告人小林幸平は、昭和一二年ころから日本冶金工業株式会社川崎製造所に入社していたが、昭和三四年日本社会党(以下社会党という。)選出の神奈川県会議員となつたため、同会社を休職となり、本件当時は、専ら議員として同党神奈川県連川崎副支部長をしていたもの、
被告人清野英輝は、昭和三三年三月神奈川県立湘南高等学校を卒業後、法政大学文学部に入学し、本件当時同学部二年に在学して同学部自治会執行部委員をしていたもの、
被告人武田郁三郎は、昭和二七年五月日本冶金工業株式会社川崎製造所に入社し、本件当時同会社労働組合副委員長をしながら全川崎労働組合協議会(以下川労協という。)常任幹事教宣部長兼同協議会大師地区責任者をしていたもの、
被告人津金佑近は、本件当時日共東京都委員会に所属して、同委員会青年学生対策部長をしていたもの、
被告人中川義和は、昭和二一年三月大和運輸株式会社調布出張所に修理員として入社し、その後昭和三〇年四月以降同会社労働組合書記長に選任され、本件当時東京貨物自動車運送労働組合執行委員長、東京地方労働組合評議会(以下東京地評という。)政治部長をしていたもの、
被告人中西功は、本件当時日共神奈川県委員長をしていたもの、
被告人中村貢吾は、昭和二二年六月川鉄に試験工として入社し、本件当時川鉄労組執行委員をしていたもの、
被告人長谷川浩は、本件当時日共中央委員会青年学生対策部長をしていたもの、
被告人馬場正夫は、昭和二九年ころ単身上京して食料品店の店員となり、その後昭和三四年三月新聞広告をみて、八欧電機株式会社(以下八欧または八欧電機という。)の臨時工となり、本件当時職場の副班長をしていたもの、
被告人舟生嘉男は、昭和三一年ころ福島県の新制中学校を卒業後、単身上京して食品会社の店員となつたが、昭和三三年ころ仕事のかたわら在京のテレビ専門学校に通い、その後昭和三四年一一月ころ同学校の斡旋をうけて右八欧電機に臨時工として入社し、間もなく同会社労働組合に加入して本件当時に及んだもの、
被告人松田武蔵は、昭和一四年三月川鉄に入社し、本件当時川鉄労組書記長をしていたもの、
被告人山下孝順は、昭和三一年一二月川鉄に試験工として入社し、本件当時川鉄労組において青年婦人協議会議長兼原料第二課の組織部長をしていたもの、
被告人山本清治は、本件当時東京都立大学法経学部四年に在学し、同大学自治会執行委員長をしていたもの、
被告人渡辺光男は、昭和二八年四月川鉄に養成工として入社し、本件当時川鉄労組において、組合大会代議員ならびに製管第一支部五管係副班長をしていたもの
であつて、本件当時、被告人青木、同黒羽の各在学していた東京教育大学、被告人女屋、同清野の各関係していた法政大学、被告人山本の在学していた東京都立大学の各自治会は、いずれも前示都自連に加盟し、これらは後記する安保条約改定阻止国民会議(以下国民会議という。)の幹事団体たる安保廃棄青年学生共斗会議(以下青学共斗という。)を通じて事実上同国民会議の組織に加わつており、被告人阿部、同石井、同中村、松田、同山下および同渡辺の各所属していた前記川鉄労組、被告人武田の所属していた前記日本冶金工業株式会社川崎製造所労働組合ならびに被告人馬場、同舟生の所属していた前記八欧電機労働組合は、いずれも前示川労協に加入し、したがつて川労協または神奈川地方労働組合評議会(以下神奈川地評という。)を通じ、前記国民会議の地方組織たる安保条約廃棄神奈川県民会議(以下神奈川県民会議という。)に加わり、また被告人安東、同飯島、同岡部、同津金、中西および同長谷川が各入党していた日共は、後記のごとく右国民会議にオブザーバーとして加盟しており、他方被告人安東、同津金の関係していた日共東京都委員会は、前記国民会議の幹事団体たる平和と民主主義を守る東京共斗会議(以下東京平民共斗という。)に加わつており、また被告人岡部、同中西の関係していた日共神奈川県委員会は、前記神奈川県民会議に入つており、被告人小林は、その所属している社会党の組織を通じ、前記国民会議または神奈川県民会議に関係しており、被告人中川は、前記東京平民共斗の常任幹事であり、かつ、右国民会議の代表幹事をしていたものであつて、被告人らは、いずれも直接もしくは間接に右国民会議の運動に関与していたものである。
第二事実
一 総論(本件の背景と事件発生にいたるまでの経過)
(一) 安保条約改定の動き
(イ) 改定問題の発端
昭和二七年四月二八日当時吉田内閣の手で締結された、いわゆるサンフランシスコ平和条約と同時に発効した日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(以下安保条約または安保という。)は、昭和二八年いわゆるM・S・A協定の交渉が進められるのと前後して、そのころ来日したニクソン副大統領が日本の防衛力の増強を強調したこと等も一つの遠因となつて、次第に改定の方向に向つていた。昭和三〇年八月鳩山内閣の重光外相は、渡米のさい米当局に対し、「片務的な安保条約を修正すべき段階に来た」旨申しいれ、これが、いわゆる重光・ダレス会談となつて両国政府内にはじめてその改定について重要な動きのあることが明らかとなつた。両国政府は、この会談の成果を日米共同声明の形で公表したが、その声明中に日本の自衛力を増強すると同時に相互防衛の精神に従つて、日本の西太平洋に対する海外派兵義務をにおわせるがごとき字句もあり、これがためその後に続く安保改定反対運動に根本的な問題を投げかけるとともに、これをもつて安保条約改定の最初の発端であると一般に理解されるに至つた。
(ロ) 改定交渉の経過
その後、石橋内閣を経て昭和三二年二月岸内閣は、その発足とともに日米新時代を政治的標語として、従来の安保条約の不平等性を是正し、新らたに日米協力関係を樹立しようとはかつた。同年六月には、岸首相自ら渡米し、その際日米共同宣言を公表して、ここに公然と安保条約改定の交渉を推進すべきことを明らかにした。ついで翌昭和三三年九月藤山外相とダレス国務長官との会談において、前年に行なわれた、岸・アイク共同宣言の再確認をして、同年一〇月四日から正式に藤山・マツカーサー間に第一回交渉が進められた。その後一年有余、前後二十数回にわたる交渉の結果、昭和三五年一月六日安保改定の下交渉が完了し、ついで同年一月一六日岸首相以下の新安保条約調印についての全権団が羽田を出発し、同月一九日ワシントンで同条約の調印が行なわれるに至つた。その間、昭和三三年一〇月右藤山・マツカーサー会談が開始されるころ、いわゆる警職法改正案が国会に上程されたり、昭和三四年三月三〇日東京地方裁判所で安保条約を違憲とする、いわゆる砂川判決があつたり、さらに国会でベトナム賠償に関し、審議打切りの強行採決が行なわれるなどのことがあつた。
二 安保条約改定阻止運動推移の概要
(イ) 反対の一般的動き
安保条約については、その成立の当初から、一部では、国際法上むしろ駐兵協定ともいうべきものであり、その名のごとき日本の安全を保障するところの条約ではない。その内容においても、日本はアメリカに対し軍事基地を貸与する義務を負担するが、アメリカは日本を防衛する義務を負わないという甚だ一方的で不当なものであるとする批判があり、かかる条約には、いわゆる日本国憲法を支配する「平和主義」の立場からして絶対に容認できないとし、再軍備反対、軍事基地撤去、中立堅持を唱えて安保条約に反対するものもあつたが、その改定の動きが、明らかとなるにつれて、新安保条約は、いかなる意味においても、日米両国間における「軍事同盟」であつて、国際社会において次第に支配的となりつつある「平和共存」の路線にも逆行する極めて危険な条約であるとして、強く反対する気運が次第に醸成されて行つた。
(ロ) 国民会議の結成
安保条約改定に反対する運動は、その改定が話題にのぼつたころには、まだその中心が備わつていなかつた。ところが、たまたま、前記のごとく、昭和三三年一〇月四日藤山・マツカーサー会談が開催されるや、これと時を同じくして政府では国会に対して警職法の改正案を提出したので、特に社会党、総評などにおいては、これをもつて、政府が安保改定を強行するのに備えて、警察官の権限を大巾に強化し、もつて日本の労働運動ないしは革新運動を取締まるものにほかならないと理解して、ここに社会党が中心となり、総評、新産別、全労、護憲連合その他の諸団体を結集参加させて、「警職法改悪反対国民会議」を発足させ、これをもつて政府自民党に対決し、大規模の反対斗争を展開したため、ついに同改正法案は、審議未了という結果になつた。そこで、同年末ころ、この成果を今後におこるべき安保条約改定に対する反対運動に活かそうとの考慮から、右「警職法改悪反対国民会議」を発展的に解消して、新らたに強力な共斗組織として残存させようとの動きがあつたが、中央では、新産別、全労などの反対があつて進捗せず、翌昭和三四年二月五日にいたつて、総評、護憲連合等の五団体が連名で「安保条約改定反対」の声明を発し、その後右の五団体が中心となつて、「安保体制打破、日中関係打開国民大会」を開催し、これを契機として各種民主団体、ことに日共などの政党をも包含した安保共斗組織をつくり、同年三月二八日「安保条約改定阻止国民会議」として正式に発足するにいたつた。ところで、国民会議は、社会党、総評、東京平民共斗、青学共斗などの一三幹事団体と日共を一オブザーバーとする共斗組織であつて、結成当時一三四団体からなつていた。正式機関は、幹事団体会議のみであり、国民会議が行なう安保反対の統一行動はすべて幹事団体会議が中心となつて計画をし、その「呼びかけ」を行ない、これが要請または指令となつて参加団体等に伝えられて行く仕組みになつていた。かくて昭和三四年四月一五日の第一次全国統一行動から昭和三五年六月二三日の新安保条約の批准書交換に対して行なわれた第二〇次全国統一行動にいたるまで終始統一行動の主宰をしていた。またそのころ全国に散在する安保反対の地域共斗会議は、初めのころの数十から激増しておよそ二、〇〇〇の多きに達し、これらには、日共からも多数の役員を出していた。そのため、日共は、形式上は国民会議においてオブザーバーとされていながらも、共斗組織の面では他の幹事団体と実質的に何らの相異はなく、重要な存在となつていた。
(ハ) 調印までの反対運動
国民会議の第一次全国統一行動は、昭和三四年四月一五日に「伊達判決支持、安保条約改定阻止」をスローガンとして行なわれ、その後同年度中に第一〇次までの全国統一行動が行なわれたが、このころの統一行動は、意識の盛りあがりの足りない諸団体と一般国民とに対する啓蒙を主たるねらいとして取り組まれ、その行動も第七次ころまでは集会とかデモ行進の形で行なわれていた。しかし、その後同年一一月二七日に行なわれたベトナム賠償問題についての強行採決に対する第八次統一行動では新たに国会請願という大衆行動方式がとられ、これがそれ以後における統一行動の基本的方法の一つとなつた。そしてこの第八次統一行動では、これに参加した全日本学生自治会総連合(以下、全学連という。)傘下の多数学生と一部労働組合員が国会構内に乱入する事件が起つたが、他方、前記伊達判決に対しては、同年一二月一六日最高裁判所大法廷において、条約の内容が違憲かどうかの判断は「最終的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものである。」と判示されたため、国民会議においては、右判決をもつて最高裁判所の違憲審査権の放棄であるとし、このうえは、言論、出版、集会、デモ等あらゆる方法をもつて国民各階層の意識を高め、右にいう「政治的批判」の実践により安保条約の改定を阻止すべしとの態度を固め、その方針に基き以後の反対運動を推進することになつた。
ところで、安保改定の下交渉は前述のごとく昭和三五年一月六日に終了したので、岸首相が全権として調印のため同月一六日羽田空港を出発して渡米することになつたが、これに対し国民会議は、「渡米・調印反対」のスローガンのもとに第一一次統一行動を展開し、岸首相の出発当日である一月一六日には集中行動として日比谷公園内で「渡米調印反対第一一次安保阻止統一行動中央集会」を開いたが、国民会議の幹事団体である青学共斗に属していた全学連の当時の指導部は、国民会議の当日の統一行動に参加せず、独自に羽田動員を行なつて、いわゆる安保一・一六羽田事件をひき起すにいたつた。
これよりさき、日共は、第八次全国統一行動における前記国会構内乱入事件の前日である同三四年一一月二六日に「整然たる統一行動によつて成功を望む」旨の声明を発表していたが、右第八次統一行動として行なわれた国会請願の大衆運動については、これを正当であつたと評価する一方、当日の行動のうちに反共と極左冒険主義を主張するトロツキストの挑発的行動があるとしてこれをきびしく批判した。つづいて、その後右の第八次統一行動を通じ、今後の運動のあり方として、特に第九次統一行動について、「国会は、人民にとつては人民の要求を反映させ、民主勢力を結集して、反動を暴露してたたかう舞台である。それゆえ、安保斗争の政治方向は、アメリカ帝国主義と岸内閣、自民党にこそ指向さるべきであり、国会請願は、このようなたたかいの人民の意思を国会に反映させるための一つの方法である。」「このたたかいを土台に中央、地方、市町村で、できるだけ大規模な政治集会をもち、労働者階級の組織性と規律のもとに、一定の整然たるデモをおこなう必要がある。」「人民の敵を明確にし、これと効果的にたたかうために、国会請願は重視しなければならない。」「各地で国会請願の運動がたかまつている。この国会内外の人民の要求を正しく発展させ、大きくするためにも、中央と地方で無規律をしりぞけ、整然たる集会、規律あるデモを組織することが必要である。こうしてこそ、国会請願は反動にたいする大きな圧力となるであろう。」「中央集会においては、人民の総意を結集し、代表をえらび、これによつて岸内閣とアメリカ政府にたいする抗議を国会請願とともにおこなうべきである、」とし、これが、「敵による弾圧の口実をあたえず、トロツキストの挑発にのらず、しかもアメリカ帝国主義と岸内閣にたいして大きな政治的圧力を加える唯一の正しい最良の方針である」(一九五九年一二月八日付「アカハタ」主張――昭三七年押第二六五号の一二八)とその方針を明らかにしたのをはじめ、累次にわたり「アカハタ」の「主張」の中で、反米斗争の必要と整然たる大衆行動の重要性を強調し、つねにトロツキスト等による極左冒険主義を排撃し、一九五九年一二月二九日付「アカハタ」の主張(前押号の一三〇)では安保改定阻止は「物理的な実力阻止」では達成されないと警告していた。
(ニ) 五月一九日までの反対運動
昭和三五年五月一九日の深更、国会周辺を埋めつくしたデモ隊の緊迫した空気の中で、衆議院本会議では、議場前廊下に開会を阻止するため坐り込んだ社会党議員を、多数の警察官を導入してこれを排除するなど騒然たる状況裡に、一挙に会期を五〇日間延期するとともに、翌二〇日午前零時をすぎたころ新安保条約のほか関係法案を強行採決するにいたつた。したがつて、これによつて、新安保条約は、三〇日後の同年六月一九日には自然承認を見得る運びとなつた。ところで、ここにいたるまで、安保改定の反対運動は、主として国会の論議に集中されていたが、国会の会期が五月二六日までとされていたところから、その三〇日前の四月二六日ころをもつて安保条約審議の一つのピークとされていた。したがつて、そのころに承認を強行される危険があるとの見透しのもとに、国民会議では、同月一五日から第一五次全国統一行動の実施に取り組み、さらに同月二〇日には、同月二六日までを安保批准阻止国民総決起週間と定めて、大規模な国会請願行動を計画していた。当時たまたま韓国で李政権に反対する学生デモが蜂起したとの報道が伝えられたが、四月二六日東京では八万人といわれる学生、労働者による請願デモ隊が国会に向つた。ところが、そのころ全学連指導部の一部に、国民会議の統一行動に従わない独自の国会デモを計画している動きが見られたところから、国民会議等から分裂行動を慎んで「秩序ある請願行動」をとるよう強く要請され、これと前後して東京教育大学等一部の大学自治会では、右の要請を支持する旨の共同声明を発し、ここに全学連反主流派といわれる都自連の結成を見るにいたつた。一方国会では、「極東の範囲」、「事前協議」あるいは「相互防衛義務」などの問題について、連日はげしい質疑が行なわれていたが、審議の最中である同年五月七日フルシチヨフ首相がアメリカのU2型飛行機をソ連領空侵犯のかどで撃墜した旨を明らかにするや、いわゆる黒いジエツト機の問題として、はげしく政府を追及し、安保条約に反対する論議がくりかえされていた。
(ホ) その後における反対運動の特色
これよりさき、外務省当局は、昭和三五年四月一三日ころアイゼンハワー大統領の訪日計画を公表し、ついで同年五月一〇日同大統領の滞日日程を発表していた。ところで、それによれば、同大統領は同年六月一九日午後五時羽田空港に到着することとなつていたため、政府自民党が前記のごとく、五月一九日深更から二〇日未明にかけて、国会の会期を大巾に延長するとともに新安保条約の承認を強行可決したことに対し、国民会議においては、非常事態宣言を発し、岸内閣の暴挙としてこれをきびしく非難するとともに民主政治の破壊であるとの声明を発表したのをはじめ、学者、文化人、労働組合等国民の各階層からも、一様に岸政府の独裁的性格を非難し、議会民主主義の崩壊であると慨歎する声があがり、右の強行採決は、アイゼンハワー大統領の来日に、ことさら時を合わせたものであるとして、その強引さをきびしく批判した。爾来、国民会議の運動の方向は、アイゼンハワー大統領訪日の政治的意義を重要視して、「国会解散、岸内閣打倒」のスローガンにあわせて、「アイク訪日反対」をもつて一つの主柱とするにいたつた。ことに日共では、声明を発し、政府の暴挙により岸政府は、「李承晩政権と何ら異るところなく、全く米帝国主義と日本の反動勢力の手足であることを暴露した、」としアイゼンハワー大統領訪日と新安保条約の締結は、切り離すことのできない、密接不可分の関係にある、と強く指摘するにいたつた。
(三) アイゼンハワー大統領の訪日計画と反対運動
(イ) 訪日計画
昭和三五年一月一九日日米両国間に新安保条約の調印が行なわれたのに引き続き、新聞は、同月二一日(日本時間)ホワイトハウスの発表として、「岸首相は、日米修好百年祭に当り、アイゼンハワー大統領が日本を訪問するよう日本政府の名において招請し、同大統領は、六月二〇日ソ連訪問に引き続き日本を訪れると申し出た。その際、皇太子夫妻が百年祭を機会にアメリカを訪問するよう希望を表明した」旨報道した。その後、外務省は、同年四月一三日正式にアイゼンハワー大統領が、パリにおける英米仏ソ四ヶ国首脳会談の後、ソ連を訪問し、その帰途日本に立ち寄る旨の訪問計画を明らかにし、ついで、同年五月一〇日、日米修好百年祭を機会に、国賓として、六月一九日午後五時に来日する同大統領の滞日中の日程を発表した。ところが、いわゆるU2型機事件が発生して同年五月一六日ころパリ首脳会談が決裂した旨報道され、アイゼンハワー大統領の訪ソ計画も中止になつたので、同大統領の訪日計画の変更が懸念されるにいたつたが、米国当局では同日ころ「アイク訪日計画に変更なし」と非公式の発表をし、日本国政府もまた同月二七日ころ「訪日は既定方針どおり行われる」旨を関係閣僚で決定して、その旨あらためてアメリカ当局に連絡し、ついで六月一日付の国内新聞は、ホワイトハウスの発表として、アイゼンハワー大統領の極東旅行の新しい日程について、同大統領が同年六月一九日フイリピン、台湾を経て訪日する旨を報道した。
(ロ) 訪日の意義についての国民会議等の理解の仕方
昭和三五年五月一九日のいわゆる強行採決の結果、アイゼンハワー大統領の来日予定日たる六月一九日に安保条約が自然承認となる事態に立ちいたるや、国民会議では、「安保改定をめぐり国論が二分されているさなかに一方の当事国の大統領が来日することは、不適当であるのみならず、五月一九日の暴挙により政治的に危機に瀕しながら、しやにむに安保条約の批准を強行せんとする岸内閣をテコ入れするものであつて、あきらかにアメリカの内政干渉である。また、頂上会談の決裂により、フイリツピン、台湾、沖繩を経て来日するアイゼンハワー大統領の旅行は、北太平洋軍事体制の強化のためであつて、軍事的危機を増大するものにほかならない、」と評価し、日共においては、同大統領の来日をもつて、「日本をアメリカの侵略的な軍事同盟にひき入れる新安保条約の批准を促進し、岸一派を支持し、激励するためである。」とし、都自連でも同旨の評価を下していたが、いずれも、同大統領の来日が、日米修好百年祭記念を機会とする皇太子との交換訪問であるとするのは、単なる名目にすぎず、実体をあらわすものではないとした。
(ハ) 訪日をめぐる反対運動
五月一九日の強行採決以来、国民会議は、アイゼンハワー大統領の訪日について前示のような理解に到達した結果、その後の統一行動では、アイゼンハワー大統領訪日反対を大きく取りあげるべきであるとし、同大統領の訪日を中止させることによつて岸内閣を崩壊させ、衆議院を解散に追い込み、もつて安保条約の批准を阻止すべしとする態度を決定し、同年六月初めころからは、「岸内閣打倒」、「国会解散」のスローガンとともに「アイク訪日反対」のスローガンをも掲げて、連日のごとくデモ隊が日比谷公園から国会、首相官邸を経てアメリカ大使館へと押しかけて行くにいたつた。そしてまた同年六月四日には安保条約の批准強行と同大統領の訪日に抗議する、参加人員数百万といわれる全国的規模の政治的ストが初めて敢行され、ここに国民会議の安保反対運動は、その指向する対象の点において、安保斗争は米帝国主義との斗争であるとする日共のそれと合致するにいたつた。
(四) ハガチー秘書の来日と羽田動員計画
(イ) ハガチー秘書の任務についての理解
昭和三五年六月一日ころ、新聞は、ワシントンよりの報道として、「ハガチー秘書の一行は、来たる六月一〇日マニラ、台北を経て東京に到着する」旨明らかにした。国民会議においては、ハガチー秘書の来日は、その地位にかんがみ、単なる滞日中の日程の打合せにとどまらず、アイゼンハワー大統領の訪日に先き立ち、日本国内の情勢を視察するためのものであり、事前の打診であると理解した。
(ロ) 国民会議の羽田動員計画
1 羽田動員の目的
国民会議は、同年六月五日ころ幹事会を開き、ハガチー秘書の来日について前示のような理解に立つて、六月一〇日から開始される国民会議の第一八次統一行動の一環として、同秘書の来日にさいし、直接アイゼンハワー大統領の訪日に強く反対する旨の意思表示を行なうため、東京都大田区羽田穴守町所在の東京国際空港(以下空港または羽田空港という。)周辺における大規模な抗議デモを計画した。
2 動員計画
国民会議は、右の方針に基き、同年六月七日戦術会議を開き、六月一〇日の戦術行動の具体的決定として、六月一〇日ハガチー秘書の来日にさいし「アイク訪日反対」の意思表示をするについては、(一)一〇日正午国民会議加盟団体の代表者二名ずつ芝公園(総評会館横)に集合する。そこからバスに便乗して羽田飛行場ロビーに入り、同秘書に対し会見申し入れを行なうこと。(二)京浜国道に対し二万人以上の動員を行なう(この具体化については総評、中立、地評、社、共を中心として立案する)。動員者は赤旗に黒いも章をつけ、「アイク訪日反対」の英文プラカード、横幕をもつて整然とならび意思表示をすること。(三)午後四時平和民主青年、婦人団体を中心とする各団体は、申し入れ書をもつて衆議院第一議員会館前に集合し、アメリカ大使館に向い会見を申し入れること。(羽田で各団体代表が会見できなかつた場合は、バスで大使館に乗りつける)などを定め、これを府県共斗ならびに国民会議加盟団体に対し通知して動員方の要請をした。その後同年六月九日の幹事会において、当日現場指揮に当る者は、おおむね六月一〇日午後〇時三〇分ころまでに京浜急行大鳥居駅(以下大鳥居駅という。)に集合することとされた。
(ハ) 羽田動員に対する国民会議参加団体の取り組み状況
1 日共
日共においても、国民会議と同様、ハガチー秘書の来日をもつてアイゼンハワー大統領訪日の下検分にほかならない、とし、国民会議から第一八次統一行動の計画として前示のごとき要請が流されるや、これに従つたうえ、同年六月八日ころ関係方面に指示して、ハガチー秘書の来日当日には、大衆行動によつてアイゼンハワー大統領の訪日を思いとどまらせ、他方各団体、小共斗より代表を選出して、これをアメリカ大使館に送り、面会を求めて決議や要請を差し出すべきこととした。そしてそのさい、安保斗争の当面の目標とその中心課題の一つは、同大統領の訪日中止にあり、これと切り離した安保斗争は存在しない。六月一〇日には大統領の訪日を断念させるよう強力かつ広汎な運動を展開すべきであると強調した。また、他方、学生階層に対しても六月一〇日の抗議デモの呼びかけをし、都自連の計画に参加するよう求めた。なお、そのさいトロツキストの挑発と妨害を警戒すべきであると警告した。
2 総評
総評では、同年六月八日および九日大牟田で臨時大会を開き、「アイゼンハワー大統領の訪日に反対する決議案」を満場一致で採択し、六月一〇日ハガチー秘書の来日にさいしては、同秘書に対し同大統領の訪日中止の要請を行なうことを決定したが、これよりさき、同月七日に国民会議の戦術会議で前記のごとき羽田動員についての具体的行動計画が決定されるや、その決定事項に即応して、そのころ同趣旨の文書等を傘下の各単産または各地評に流した。その結果、東京地評においては、国民会議の要請と同日付で「第一八次統一行動以降の方針と動員協力要請について」と題する文書(前押号の五八)を作成して、各単産委員長ならびに地区労議長に宛てて通知し、六月一〇日の行動として、羽田空港に公労協、民間労組による、いわゆる四号動員を実施し、当日午後一時までに大鳥居駅に集合すること等のほか、右の諸行動については、ハガチー秘書に対し沿道で「アイク訪日反対」の意思表示を行なう行動であるからその効果をあらしめるために、できるだけ多数のプラカード、赤旗等を持参されたい旨の付記をして要請した。
3 都自連
都自連は、国民会議が、同年五月二一日ころ、五月一九日のいわゆる強行採決に関連して、アイゼンハワー大統領訪日反対の決議をしたので、その決議に基いて、そのころからその具体的行動について計画を練つていた。ことに、前記のごとく、同年六月七日国民会議が六月一〇日の羽田動員についてその具体的行動を決定するや、都自連でも、それを受けて、羽田動員の具体的行動を決定した。すなわち、六月一〇日にはハガチー秘書に対しアイゼンハワー大統領の訪日中止を訴える有効なデモンストレーシヨンを行なうたてまえで動員部隊を羽田空港およびアメリカ大使館等に振り向けて抗議を行なう。羽田空港への動員については、当日午後一時までに萩中公園に集合のうえ、蒲田消防署羽田出張所付近に移動して位置し、その後は現地の国民会議の指示により行動すること、またアメリカ大使館に向う動員については、同日午後三時ころまでに清水谷公園に集結ないし羽田空港より移動再結集することとした。当時都自連は、大鳥居駅付近に東京地評関係約二万人、蒲田消防署羽田出張所付近に学生関係約五、〇〇〇人、大師橋付近に神奈川関係約四、〇〇〇人および関西関係約七〇〇人の各デモ隊が配置されるものと予想して当日の動員に取り組んでいた。また都自連は、アイゼンハワー大統領の訪日が時期的にも政治的にも日本国民の意思に反し、極めて不適当であつて、大きな政治的冒険であるとの判断に立つて、訪日を思いとどまるよう同大統領に警告する趣旨の声明書を作成してこれをハガチー秘書に託そうと計画し、同月八日ころその和文のものを完成し、つづいてその英文化に着手する一方、都自連名義で、ハガチー秘書はアイゼンハワー大統領訪日の下検分の任務を帯びて来日するものゆえ、同秘書自身に対し、学生の断固たる抗議の意思表示を行ない、秘書をして忠実な秘書の役を果さしめ、同大統領の訪日を思いとどまらせる必要がある旨のビラなどを作成配布したりした。
4 東京平民共斗
東京平民共斗は、国民会議幹事会の下した決定の線に沿つて緊急常任幹事会を開き、空港ロビーに赴く代表団として数名の者を入選し、これを当日の国民会議の代表団に参加させる一方、いわゆる五号動員として合計三万人の動員を予定して、これを二つに分割し、羽田空港とアメリカ大使館にそれぞれ向わせる方針をとつた。羽田空港に向ける動員部隊には、それぞれ弔旗を持たせ、ハガチー秘書に対し沿道で整然と抗議の意思表示を行なわせることにしていた。当日における東京平民共斗の中心は、東京地評が当たる関係上、国民会議が動員要請をした同年六月七日東京地評において前記記載のような動員計画をたて、これを各単産委員長ならびに地区労議長に要請した。また、日共でも、右の常任幹事会で決定された事項を日共東京都委員会から傘下の各地区委員会に連絡をして動員に参加させるよう指示した。
5 神奈川県民会議
神奈川県民会議においては、同年六月七日の国民会議幹事会に事務局長および事務局員一名がオブザーバーとして出席していたため、事実上国民会議からの動員要請を知つていたが、翌八日にはあらためて正式の要請を受けたため、当時平和大行進と取り組んでいた関係もあつたので代表幹事には電話で協議したうえ、同日夕刻から九日にかけて県下の各加盟団体に対し動員要請を行なつた。そのさい、国民会議からの要請の趣旨を伝え、六月一〇日午後一時までに大鳥居駅前に集合されたい旨を連絡した。これに基き川労協、横浜市民会議でも、前記平和大行進関係の人員を分割しても、羽田動員に応ずる態度を決定した。また、川鉄、八欧等の各労働組合においては、それぞれの上部団体からの指令と前記川労協よりの要請により六月一〇日の羽田動員を計画し、横須賀市民会議においても、神奈川県民会議よりの意向を受けて当日の動員に応たえることにしていた。
6 関西部隊
大阪、京都、奈良、和歌山、兵庫の各府県においては、総評関西ブロツク共斗会議が中央からの要請にこたえて決定した線に沿い、国民会議の第一八次統一行動に参加するために上京する関西代表団を編成し、一部列車を利用して上京する者を除き、同月九日夕刻大阪関係約三〇〇名、京都関係約二四〇名、奈良関係約六二名、和歌山関係約一四〇名その他総計七百数十名の代表団が約十数台のバスに分乗し、一旦京都市役所前に集合したうえ、東京に向つて出発した。これら代表団は、翌一〇日早朝箱根湯本観光会館に到着したが、そのさい先発して一行を出迎えていた大阪地評争議対策部長中江平次郎より、総評本部からの動員計画として、同日直ちに萩中公園に赴いたうえ、羽田周辺でハガチー秘書に対し抗議行動を行なう旨告げられ、これに参加することを決定した。
(五) 警備方針と警備態勢
(イ) 警備方針
昭和三五年六月一〇日に予定されたハガチー秘書の来日に伴ない、警視庁では、同月九日警備方針の徹底を図るため、関係方面警察隊長、警察署長、機動隊長その他の参集を求め、警備の打ち合わせを行なつた。席上担当官より、当日には国民会議を中心とする約二万人の組織動員が計画されていること、これらは、羽田空港ならびにアメリカ大使館に向つて動員される予定であるが、防共挺身隊等の右翼団体も若干羽田空港に向う情報があること、労働組合等のデモ隊は、赤旗に黒のも章をつけて羽田近辺の沿道で整然と反対の意思表示をするが、約一万人の全学連反主流派の学生は、多少気勢をあげるおそれもあること等情報についての説明があり、なお国際的に微妙な影響を及ぼすおそれがあるので、万全を期し、部隊活動、警備配置には慎重を期せられたい旨の指示があり、その結果、外務省を通じて事前になされたアメリカ大使館側の要望もあつて、当日は、制服警察官の出動配置は、交通整理に当る者など小範囲のものにとどめ、大部分の制服警察官は、万一の場合に臨機の措置がとれるようにして、できるかぎり後方に秘匿待機させるとの方針が示された。ついで、翌六月一〇日午後〇時三〇分ころターミナルビル(ロビーのある建物)内にある空港内警備派出所において、前日の警備方針のもとに、それぞれ部署についていた各隊長(第三機動隊長を除く)の集合を求めたうえ、第二方面警備本部長警視正佐藤嘉一を中心にあらためて警備方針の打ち合わせを行なつたが、そのさい蒲田警察署長および空港警察署長から「当日デモ隊の指揮に当たる東京都議会議員大沢三郎(以下大沢都議という。)において、デモ隊を整然と並らばせて反対の意思表示をするから、警察側においてデモ隊を刺激しないでもらいたい旨の申し入れがあつた」由を明らかにされ、さらにその当時の現地の状況等をも検討した結果、前日の警備方針については別段変更を加える必要がないことを確認した。
(ロ) 警備態勢
警視庁においては、ハガチー秘書の来日に伴なう国民会議の統一行動に対処するため、右の警備方針に基き、警視庁内に警備総本部を置き、羽田方面の警備については前記第二方面警備本部長が指揮をとることとし、その警備本部を右空港内警備派出所に設け、ハガチー秘書搭乗の自動車(以下ハガチー車という。)の出口とされる通称国賓道路の北方出入口周辺を警視外川浅次郎以下三一〇名の第二機動隊、ターミナルビルおよび歓送迎デツキ(以下フインガーという。)ならびにその周辺を警視森生新市蔵以下一一三名の蒲田署部隊および警視谷川正年以下六六名の空港署部隊、国賓道路北出入口から空港郵便局付近までを警視渡辺利男以下一七二名の向島大隊、空港郵便局から稲荷橋までの道路を警視大津貞一以下一八九名の本所大隊、大鳥居駅周辺を警視斎藤一男以下一六五名の荏原大隊および警視末松実雄以下三一七名の第五機動隊、大鳥居駅から稲荷橋までを警視江沢三郎以下一一〇名の池上大隊の各警備担当区域と定めて第二方面警備本部長の指揮下におき、同月一〇日正午ころまでには右各部隊とも、交通整理等の所要人員を部署に配置したほかは、各部隊主力は、第二機動隊はターミナルビルの空港内警備派出所付近の空地に輸送車約一〇台に乗車待機し、蒲田署部隊はターミナルビル三階に、空港署部隊はターミナルビル付近に、向島大隊はターミナルビルの東側にあるフレートビル付近に、本所大隊は空港警察署内にそれぞれ待機し、また、荏原大隊および第五機動隊は大鳥居駅付近にそれぞれ乗車待機し、なお、警視木村正一以下二五七名の第三機動隊は、初めのころ総本部長の直轄部隊として品川警察署に待機していたが、同日午後二時四五分ころ転進命令を受け、午後三時四〇分ころ稲荷橋西側に前進して、第二方面警備本部長の指揮下に入つた。
(ハ) ハガチー車の警護
前記六月九日の警備方針の打ち合わせのさい、外務省を通じて明らかにされたアメリカ側の意向によると、ハガチー車の警護については、特別の措置をせず、いわば普通の状態で空港からアメリカ大使館に向いたい、とのことであり、従つて警視庁においてはその趣旨に添い当日ハガチー車に対しては、警視庁から先導責任者たる警部堤正雄外三名の警察官および連絡責任者たる外務省山田事務官の同乗する警視一〇一号(車両番号八―た〇二九三号)が先導車となつて先行するほか、後方には竹下巡査部長らの後備車が随行して一行を護衛するが、いわゆる白バイ隊は別にこれをつけないこととなつた。右の方針に基いて同月一〇日午後〇時三〇分ころ右警視一〇一号車等は、羽田空港に到着し、後記のごとくハガチー車が一七番スポツトを出発した同日午後三時四二分ころ右先導車は国賓道路の北方出入口付近で待機していた。
(六) 六月一〇日事件発生前における一般状況
(イ) ハガチー秘書到着前における空港内外の状況とデモ隊の集結
1 空港ターミナルビルの状況と国民会議代表団
昭和三五年六月一〇日午前一〇時三〇分ころから愛国党員、防共挺身隊員などの約五〇名、ならびに日本民主学生同盟(以下民学同という。)の学生団体約五〇〇名等が弁天橋検問所前を通つてバスでターミナルビルに赴いたのに前後して、午前一一時ころには、国民会議代表団の身辺防衛方を命ぜられていた日共神奈川県委員会委員中路雅弘の引率する日共党員等約四〇名がターミナルビル内に到着していた。その後午後〇時一〇分すぎころ東京地評の大型宣伝カーで日共、社会党、社青同等の代表者および川鉄行動隊等およそ九団体の代表等約四〇名、つづいて午後〇時五〇分ころ「国民会議」のステツカーをつけた日本交通のバスで約五十数名の各労働組合の代表が順次到着して合計約百三、四十名となり、これらのものは、日共、社会党の各国会議員を先頭にして中央国際線フインガーの花だんのある広場に進出し、同日午後一時三〇分ころには同フインガーの北端付近に陣取つていた赤尾敏らの右翼団体と対峙し、デツキの奪い合いで時々小ぜり合いをした。そしてこれら国民会議の代表団は、右両者の衝突を防止するためその中間に割り込んで来た警察官に対し、その態度が偏頗であるとし、相手方をこそ強く取り締まるべきであると抗議をしたりしていたが、後記のごとく、弁天橋方向に救援部隊が馳けつけて来る状況を望見するや、抗議団側は、スクラムを組み、労働歌を高唱して、気勢をあげながらハガチー秘書一行の到着するのを待つていた。
2 大鳥居駅付近の状況と国民会議現地指導部
国民会議の示した前記動員計画に基き、同日午後一時ころから逐次集合して来るデモ隊員を統轄処理するため、前日の国民会議幹事会で予定された指揮者要員は、同日正午ころから大鳥居駅周辺に集合して来た。そして同日午後〇時三〇分ころ大鳥居駅付近に来ていた日共の大型宣伝カー内において、集つた社会党代表大柴滋夫、日共代表土岐強、東京地評代表被告人中川義和ら約一〇名の者は、当日の羽田動員の現地指導を行なうこととした。その後現地指導部の本部は全逓の大型宣伝カーにおかれた。この国民会議の現地指導部では、同日午後一時前後から続ぞく集つて来たデモ隊の配置につき協議した結果、デモ隊を空港の出入口を扼する稲荷橋および弁天橋に向け、できるかぎり前進させ、道路の片側に整列させて抗議の意思表示をさせることとなり、当初大鳥居駅付近に集結していた東京共斗部隊を大鳥居駅と稲荷橋の中間にある荏原製作所前まで、蒲田消防署羽田出張所付近に集結していた都自連等の学生部隊および関西部隊を弁天橋通りの羽田小学校前まで、また当日右現地指導部の指示で大師橋付近に集結していた神奈川部隊を海老取川と多摩川との合流点付近までそれぞれ進出させたが、予期していた警察官の制止が全くなかつたので、さらに東京共斗部隊を稲荷橋、その他の前記各部隊をいずれも弁天橋まで各進出させるにいたつた。
3 稲荷橋付近の状況と東京共斗部隊
国民会議の動員計画に基いて動員された東京地評を主力とする東京共斗部隊のデモ隊員は、同日午後一時ころから大鳥居駅周辺に続ぞく集合して来たが、これらのものは、前記のごとく国民会議現地指導部の指示により、日共、社会党、全国金属などの旗を先頭にして、前記荏原製作所前を経て、稲荷橋西詰まで進出した後、同二時五分ころ日共中央委員会、社会党秘書団等が同橋上に進出したうえ両側に分かれて位置し、同日午後三時すぎころまで労働歌を唱つたりして気勢をあげていたが、そのころまでには、大鳥居駅、稲荷橋間の道路の片側には、東京共斗に属するおよそ四、五千人のデモ隊が縦隊を作つて待機するにいたつていた。
4 弁天橋付近の状況と学生部隊、神奈川部隊および関西部隊
a 学生部隊
都自連に所属する学生らは、前記動員計画に従い、一部は同日午前一〇時三〇分ころすでに萩中公園に集合していたが、正午すぎから蒲田消防署羽田出張所前十字路付近に移動し、同所で暫時待機した。その後同日午後一時三〇分ころ、前記のごとく国民会議現地指導部の指示を受け、被告人黒羽ら学生部隊指揮者において、そのころ所属学校ごとに指揮者に引率されて集合して来ていた学生部隊を弁天橋通り羽田小学校付近まで前進させ、そこで一旦停止した後さらに弁天橋に向け部隊を進め、午後二時すぎその先頭は弁天橋西詰に到着した。これら学生部隊の所属学校は、東京教育大学、東京都立大学、法政大学、立教大学等およそ十七、八校であつてその数は一、五〇〇名以上にのぼつており、被告人黒羽は、これら学生部隊全体の指揮者で、かつ当日の国民会議現地指導部との連絡責任者であり、また被告人青木は主として右東京教育大学の、同山本は東京都立大学の、同女屋、同清野は、いずれも法政大学の各指揮者として行動していた。これら学生部隊の先頭が弁天橋西詰に到着して間もなく、被告人女屋は、右学生部隊の先頭に立つてこれを誘導し、同橋東詰検問所の手前付近で停止させ、部隊を同橋北側に順次片寄らせたうえ、およそ八列位の縦隊にして同橋上に坐り込ませた。ついで午後二時三五分ころ被告人黒羽、同女屋らの指揮で坐り込み学生を起立させたうえ、約六、七米前進させ、さらに午後三時二〇分ころにも前同様、七、八米前進させて、ハガチー秘書一行を待ち受けていたが、その間、これら学生部隊は、労働歌を唱つたり、わつしよい、わつしよいと掛声をかけたりして気勢をあげており、交通整理の警察官から度々通路をあけるよう警告を受けたが聞き入れず、依然として坐り込みを続けていた。また、午後二時一五分ころには後記のごとく、弁天橋西詰付近で、ハガチー秘書歓迎団の民学同学生約四〇名を乗せたニユー東京観光バスを取り囲んでこれを阻止したうえ、後退させたり、さらに同午後三時一五分ころには新学連の学生の入港をはばんだりしたため、これら民学同、新学連の学生らとの間に小ぜり合いを演じたりした。一方、被告人長谷川、同飯島らは、前記蒲田消防署羽田出張所付近から右学生部隊と行動をともにし、被告人津金、同中西、同安東らも弁天橋を中心にして待機している学生部隊の間にその姿を見せていた。
b 神奈川部隊
神奈川県民会議の動員計画に基いて当日の動員に参加した神奈川部隊の一部デモ隊員は、同日午後〇時三〇分ころから逐次大鳥居駅付近に集合し、間もなく国民会議現地指導部の指示により一旦産業道路を通つて大師橋のたもとに集合し、午後一時三〇分ころには、その数およそ四〇〇名となつた。そのさい、川労協議長本橋順は神奈川部隊の総指揮に、また、横浜地区労事務局長田沢一三は副指揮に選ばれたが、本橋は、集合したデモ隊員に向い、「この場所は、以前岸首相が安保調印で渡米するさい通過した場所で、いわれのある場所だ。ハガチーが通れば旗を振つてアイク訪日反対の意思表示をしよう。」などと挨拶をした。集つたデモ隊の中には、当日被告人松田が責任者となつて引率して来た川鉄労組に属する約五〇名をはじめ、八欧電機、日本冶金などの各労働組合員も加わつていた。その後午後二時ころこれらデモ隊は、前記のごとく国民会議現地指導部からの指示で部隊を三つの道に分けて海老取川と多摩川との合流点に向つて前進したが、間もなく一本の道に合流したので、被告人松田らの川鉄部隊が先行し、右合流点に達した後、同二時一五分ころには弁天橋西詰付近に進出し、そこを先頭にして海老取川西岸一帯に位置し、同日午後三時三〇分ころまで各自思い思いの姿勢をとつて待機していた。
c 関西部隊
関西部隊の代表団は、萩中公園で列車上京組とバス上京組とが合流した後、同日午後一時三〇分ころから前記蒲田消防署羽田出張所前十字路付近の産業道路歩道上に坐り込んで待機の姿勢に入つていたが、午後二時二〇分ころ前記のごとく国民会議現地指導部の指示により、学生部隊のあとに続いて、和歌山、京都、大阪、奈良の順で弁天橋方向に前進し、間もなく同橋上に坐り込んだりして待機している学生部隊の後方に到着し、同所でその後同日午後三時三五分ころまで道路上に四列の縦隊を組んで待機していた。
(ロ) ハガチー情報とこれに伴うデモ隊の移動および待機の状況
1 ハガチー情報について
当日動員されたデモ部隊の大部分のものは、ハガチー秘書の羽田到着予定時刻については、これを知らないか、知つていてもその時刻は午後二時ころと思つていた。ところが、確たる情報もないまま刻一刻と時が過ぎて行くので、デモ隊の中に、「ハガチーはヘリコプターでいつた。」とか「羽田につかないで横田へ軍用機で来る。」あるいは「ハガチーは立川へいく。もうここに来るか来ないか不確定だ。」などといろいろうわさが飛び、しかも当時空港内外のデモ隊の集合状況は、前記(イ)記載のとおりであつて、羽田空港から都内に入る通路である弁天橋も稲荷橋も、ともにそのままの状態では自動車の通行は殆んど不可能に近くなつていたが、そのような状況裡に同日午後三時すぎころマツカーサー大使がヘリコプターで空港に飛来し、また空港には、そのころ別の米軍用ヘリコプターも到着していたため、空港内外の者の間に、報道関係者らを通じて、ハガチー秘書は羽田に着いても、ヘリコプターでアメリカ大使館に向う旨の情報が広く伝わつた。ことに午後三時二四分ころ被告人黒羽が、弁天橋上で日共東京都委員会の宣伝カーの上から「ハガチー氏が現在ヘリコプターで到着しました。よつて、稲荷橋と弁天橋はしつかりとスクラムで固められておりますので、彼ははい出るすきまがありません。あとは手段としてヘリコプターで逃げ出すか、その程度の手段しかありません。」などと放送したので、これを聞いた当時橋上に坐り込んだりしていた学生部隊はもちろん、その後方に待機していた関西部隊ならびに海老取川西岸に待機していた神奈川部隊の各デモ隊も、ハガチー秘書がヘリコプターを利用する公算が多いものと考えた。
2 東京共斗部隊
同日午後三時二〇分ころ、後記(ハ)記載のごとく、東京共斗部隊の約一、〇〇〇名のデモ隊がターミナルビルの方向に移動した後、稲荷橋付近に残留していた約三、四千名のデモ隊においては、前記のようにハガチー秘書が万一ヘリコプターでアメリカ大使館に向う場合に対処して、指揮者の指示により、その先頭が橋上からはみ出し、さらにその一部が空港の金網のところまで進出し、なお橋上には各組合旗等を立てならべたうえ、上空を飛び去るハガチー秘書に対し、これを振つて抗議の意思表示をしようと構えていた。
3 学生部隊
被告人黒羽が弁天橋上で日共東京都委員会の宣伝カーの上から前記のような放送をした後、同被告人ら都自連の学生指揮者らにおいても、そのまま学生部隊を弁天橋に留めて、もしハガチー秘書が上空をヘリコプターで行くときには、これに対し各自治会の旗、プラカードないしは横断幕等をなびかせて抗議の意思を示そうとしていた。
4 神奈川部隊
神奈川部隊においても、ハガチー秘書がヘリコプターで都心に向うとの情報が伝わり、また後記のごとく稲荷橋方面より東京共斗部隊がターミナルビル方面に向け行進して行く状況を見るや、国民会議現地指導部に連絡してその指示を受け、同日午後三時三五分ころ前記本橋順の指揮で空港敷地内に入つて抗議の姿勢を示そうとした。そのころ部隊の先頭にいた被告人松田は、弁天橋西詰付近の前記民学同学生らの混乱に巻きこまれるのをおそれて、自己の掌握する川鉄部隊を整列させていたので、これにそのまま「これより空港内に入る」などと指示を与え、これにより川鉄部隊が四列縦隊で先頭となり、コロンビア、川崎市労等川労協傘下の各組合、八欧電機労組などの川崎部隊につづいてその他の神奈川部隊が、順次、弁天橋上に坐り込んだりしている学生の間を通つて、掛声をあげながら橋を渡り、空港内に入つた後、同橋東詰の検問所付近で、国民会議現地指導部の大沢都議の指示を仰ぎ、同所を右に大きく蛇行して、一旦地下道と右検問所間の道路南側多摩川寄りの空地に出たうえ、その先頭に立つ川鉄部隊が地下道の西側にある車道中央のグリーンベルトの西端線南方付近まで前進したところで、逐次停止し、その後北方飛行場方向を向いて横隊となり、舗装道路上に進出、前記先頭部隊の方から天皇道路入口前よりやや弁天橋に寄つたあたりにかけて位置していた同部隊の後尾まで、西方弁天橋に近くなるほど次第に深く舗装道路内にはみ出して行く状態で、あるいは立ち、あるいは坐り、タバコを吸うなど、比較的余裕のあるふんいきのうちに、もしハガチー秘書がヘリコプターで上空を通過したときには、旗などを振つて抗議しようと考えながら待機していた。
5 関西部隊
関西部隊は、神奈川部隊に続いて弁天橋西詰から隊伍を組んで橋を渡り、神奈川部隊同様大沢都議の指示を受け、先頭の和歌山部隊の百数十名は、関西部隊の指揮者中江平次郎に誘導されて、神奈川部隊の背後を通つて柵を越え、地下道天蓋上まで進み、続いて山本宇三次郎に引率された京都関係の二百数十名は、神奈川部隊のなかで、主として川崎関係のデモ隊の背後に到り、また大阪関係の三〇〇余名は、京都部隊等につづいて、先頭は、天皇道路入口の南側にあたるところよりやや検問所寄りに位置する神奈川部隊のコロンビア労組等の背後辺りに進んだが、その後尾はなお弁天橋東側三差路の中央辺りにあつて、その隊列は舗装道路上を、西行する車の車道を塞ぐ形で、斜めに同車道を横断して進んでおり、他方奈良関係の六〇余名は、漸く弁天橋を渡り切つて空港側に入り、これら関西部隊は、いずれも空港内の状景を立ち止まつて眺めたりしながらゆつくりと前進していた。
(ハ) 東京共斗部隊および学生部隊のターミナルビルに向けての移動状況
ハガチー秘書がヘリコプターでアメリカ大使館に向うとの情報が伝わり、被告人黒羽が弁天橋上で日共の宣伝カー上から前記のごとき放送をする前後ころ、稲荷橋およびその付近で待機していた東京共斗部隊においては、国民会議現地指導部から国民会議の代表団がロビーで右翼にさえぎられておるゆえ、急いで増援部隊を派遣されたい旨の要請を受けたので、直ちにこれに応じ、同日午後三時二〇分ころ先頭にいた日共および社会党の各部隊その他で約一、〇〇〇名の増援部隊を編成し、これを二梯団に分けて右代表団を護衛するためターミナルビルに派遣した。かくて、この増援部隊の第一梯団は、ラウンド・ハウス横の階段から国内線フインガーに登り、同三時四〇分ころ国際線中央フインガー花だん付近の国民会議代表団と合流したが、被告人安東はこの梯団の中にあつて、その最先頭を行く日共部隊の先頭に立つてその部隊を誘導し、また被告人中川は代表団と合流するころ、その先頭に立つて国内線フインガーを進んで行つた。ところで、これに続く第二梯団は、全日自労が先頭となり、第一梯団が代表団と合流するころは、オペレーシヨンセンター付近を進んでいた。
一方、そのころ弁天橋にいた学生部隊においても、稲荷橋からターミナルビル方面に向うこれら東京共斗部隊の増援部隊を弁天橋東詰で拍手をもつて見送つていたが、その直後、国民会議現地指導部の要請で急きよ三〇〇名の増援部隊を出すこととなり、先頭部分にいた教育大、都立大を主力として所要の人員をそろえ、被告人黒羽、同山本が引率責任者となつて、同日午後三時四〇分ころ東京共斗部隊の増援部隊第二梯団の後を追うようにして、被告人黒羽がこれら学生派遣部隊の先頭に、被告人山本がその中の都立大関係の先頭に立つて急進し、地下道を通つてオペレーシヨンセンター南側の大曲付近を馳け足でターミナルビル方面へと急いでいた。
二 各論(罪となるべき事実)
(一) ハガチー車関係
昭和三五年六月一〇日午後三時三五分すぎころ、前記本橋順の指揮で前記一、(六)、(ロ)、4のとおり弁天橋を掛声とともに渡り、地下道と同橋検問所間の舗装道路の南側路上に横隊となつてならんだ約四〇〇名の神奈川部隊の隊列中において、被告人松田、同山下は川鉄部隊の先頭部分前列に、被告人中村は川鉄部隊のやや後尾付近、神奈川部隊のほぼ中間で隊列の前面に、被告人阿部、同渡辺および同石井はいずれも被告人中村の近くの隊列中の前列に、被告人小林はその付近で列外前面に、また被告人武田、同舟生、同岡部らはいずれも川鉄部隊の西方神奈川部隊の中間で前列に各位置し、被告人馬場も右被告人舟生らの近くで道路上の最前列に位置し、被告人中西は所用のため当日の羽田動員には参加しないことになつていたところを呼び出されて中途より参加したものであるが、神奈川部隊が弁天橋を渡つて空港敷地内に入つたころには同部隊に加わつて行動を共にしており、また被告人青木、同清野は、いずれも学生部隊の責任者として、被告人黒羽らが前示約三〇〇名の学生部隊を誘導してターミナルビルに向つた後は、約一、二〇〇名の学生部隊とともに弁天橋上に残留しており、他方被告人長谷川、同飯島および同津金はそのころ弁天橋または同橋東詰検問所の近辺で右残留学生部隊とともに待機していた。
ハガチー秘書一行の搭乗した特別機は、同日午後三時三九分ころ羽田空港一七番スポツト(当時)に到着したが、そのころ日本側の警備担当警察官より、出迎えのアメリカ大使館員等を通じ、マツカーサー大使に対し、当時の空港内外の情況を訴えたうえ、ハガチー秘書の入京については、自動車によるとすれば交通規制等の必要もあり、暫時待つてもらいたい旨の希望を申し入れていた。ところが、日本側警察官などの予想に反し、右特別機から降りたつたハガチー秘書は、マツカーサー大使とともに、付近にあつたヘリコプターの方向に若干進むかと見えたが、急に方向を変え、米大使館より差し向けられ、特別機の到着後タラツプに近づいて待機していた同大使館職員愛甲義衛の運転する外第一八一七号キヤデラツク五六年型乗用自動車の方向に進んでその後部左側(以下すべて自動車の進行方向を意味する。)座席に乗車し、ついでスチーブンズ秘書、マツカーサー大使の順にその右側に乗り、また左ハンドルである運転手席の右側助手席には米人護衛官が同乗して同日午後三時四二分ころ出発した。当日ハガチー車の先導を勤めることになつていた堤正雄警部は、先導車(警視一〇一号)を国賓道路におき、車を出てハガチー秘書搭乗の飛行機の着陸状況等を見ていたが、ハガチー秘書一行が思いもかけず早く出発して来たので驚き、慌てて先導車に戻り、漸くのことにハガチー車の先導に立つことができた。かくて、ハガチー車の一行は、先導車、ハガチー車、随員車、予備車の順で、白バイ等の警護はなく、国賓道路を経て、一般道路に進み、空港郵便局前を左折して大曲から弁天橋の方向に向け、時速五、六十粁の速度で進行した。
一方、前に記述したごとく、稲荷橋方面より馳けつけた増援部隊の第一梯団は、国際線中央フインガー付近の国民会議代表団と合流して間もなく、デモ隊の中から「わあつ」という喚声とともに、ハガチー秘書が自動車で出発したとの声がわき起るや、これらデモ隊と入り乱れて空港ロビーを通り抜け、あるいは国内線フインガーを馳け戻つて、弁天橋の方向に引きかえし、また増援部隊の第二梯団はオペレーシヨンセンター前で、被告人黒羽らの率いる約三〇〇名の学生派遣部隊は大曲付近で、それぞれ前方から疾走して来たハガチー車の一団とすれ違うや、喚声をあげ、列を乱して急きよ反転して弁天橋の方向に馳け戻つた。
ところで、ハガチー車の車列には、そのころ、西日本新聞社の乗用車が横あいから出て来て、先導車の前に立つて走り出したが、大曲を右折して弁天橋方向に向う直線コースに入つた時には、前方を走つていた所属不明の乗用車に追い付き、ここにその車を先頭に、西日本新聞社の車、先導車、ハガチー車、随員車、予備車の順に、報道関係等の車多数を追従させながら、五、六十粁の速度で疾走していた。そして、このようにして進んで来るハガチー秘書一行の車の列は、弁天橋およびその付近から望見できる状況であつたところ、そのあたりにいた部隊のどこからともなく、「来た、来た」との声があがり、その声とともに、デモ隊はいく分前方にせり出すような形になつたが、そのときには既にハガチー車は、所属不明車を先頭として、地下道をくぐり、上り勾配になつている坂道を上つており、車列の先頭の方は神奈川部隊の前面に差しかかつていた。と、突然、道路左側にいた神奈川部隊の中から二、三本の赤旗が車列に向つて振りおろされ、これらの車が速力を落すと見る間に、付近にいたデモ隊が車列に向つて押し寄せ、しかも、おりからハガチー車の車列とは反対に、弁天橋方向からターミナル方向に向つて進行して来た車があり、前面から押し出して来たデモ隊等とこの対向車に進路を塞がれる形となつて、まず最先頭を行く所属不明車が停車したため、つづいて走つていた西日本新聞社の車も停車し、これがため、後続の先導車も停止し、ついでその後方約五、六米の間隔をおいて進行して来たハガチー車も急いでハンドルを右に切り、その車体の左前部が先導車の右後部に殆んど接する状態で、その道路のセンターラインを大きく反対側に越え、地下道の西側にある道路中央のグリーンベルト西端から約一〇米の地点で停車するのやむなきにいたつた。
(イ) (暴力行為等処罰に関する法律違反関係)
叙上のように進行して来たハガチー車の車列が停車するかしないうちに、そのあたりにいたデモ隊員は、坐つていた者も立ち上がり、前に乗り出し、中にはどつと眼前の車をめがけて押し寄せるものもあつたが、その間にあつて、
被告人阿部、同岡部、同石井、同武田、同馬場、同舟生および同渡辺は、当時の状況上ヘリコプターで行つてしまう公算が大きいと思つていたハガチー秘書が自動車を連らねて現われ、そして右被告人らの目の前で止まるのを見て、卒然として抗議行動を行なう気持にかられ、眼前のハガチー車に向つて喚声をあげて押し寄せた数十名のデモ隊員とともに、その左側から同車に取り付き、互に順次意思相通じ共謀のうえ、口ぐちに、「わあー、わあー」「わつしよい、わつしよい」「ハガチー、ゴーホーム」などと叫びながら、被告人阿部、同岡部、同武田、同渡辺において、まずハガチー車の左側車体の前部下方に手をかけ、力をあわせ、これを持ち上げるようにしてはげしくゆさぶり、ついで車体に取りついた被告人舟生も、また他の労組員らとともに、両手で窓や車体を押したり、「わつしよい、わつしよい」と叫びながらこれをゆさぶり、車内にいるハガチー秘書らに対し暴行を加え、その間、被告人石井は、所持していた英文プラカードを両手に持ち、これを車内に見せるように上下させたりしながら車体を叩き、被告人馬場は、ハガチー車の前方から右側にたち廻つたうえ、他のデモ隊員から受け取つた横幕の棒ではげしくハガチー車の前部車体を叩き、そのころハガチー車の前方多摩川寄りにいた神奈川部隊および南側車道を斜めに横断していた関西部隊ならびに弁天橋方面からいち早く馳けつけた数十名の学生部隊も、またハガチー車の前方もしくは右側から殺到し、これに神奈川部隊の背後にいた関西部隊も加わり、一同でハガチー車を取り巻き、口ぐちに喚声をあげながら、右被告人阿部らの共謀にそれぞれ加担し、騒然として混乱のるつぼと化したうちにあつて、互に一体となつて、プラカードや旗竿等で激しく車体を乱打し、左右から車体をゆさぶり、車に向けて石を投げ、あるいはハガチー車の車体前部左右にある旗竿(昭和三七年押第二六五号の六八は、そのうちの一本)を折損し、さらに右後尾灯を破壊し、もつて多衆の威力を示し、かつ多数共同してハガチー秘書ほか同乗の前記四名に対し暴行を加えるとともに同車の右後尾灯等を損壊し、
(ロ) (不法監禁業務妨害関係)
当時被告人松田、同中村、同中西、同山下および同小林は、いずれもハガチー車が停止したころその付近にいたが、ハガチー車を取り囲んだデモ隊員が前記のごとく無統制に混乱を極めた状態で抗議の意思をぶちまけているのを見るや、期せずして、この混乱を鎮め、統制ある抗議行動に移さねばならないと決意し、口ぐちに「さがれ、さがれ」または「寄るな」などと叫んで、ハガチー車を取り巻いているデモ隊や、殺到して来る神奈川部隊、関西部隊その他のデモ隊員の制止に努めたが、容易に鎮まる様子もなかつたので、
1 (神奈川部隊、関西部隊等によるハガチー車包囲)
a (主として包囲指揮の関係)
右被告人らは、混乱するデモ隊の秩序を回復し、これを掌握して統制ある抗議行動に移すためにはハガチー車周辺のデモ隊にスクラムを組ませ、あるいは坐り込ませるにしかずとし、かつ、国民会議現地指導部等よりの指示があるまで、右のようにしてハガチー車の進行をその場に一時阻止し、同秘書らを車内に閉じこめておこうと考え、互に暗黙のうちに意思を共通にし、共謀のうえ、
被告人松田は、ハガチー車の後部トランクより「坐れ、坐れ」などと叫びながら同車の天蓋上に上がつて坐りこみを指示し、
被告人中村は、被告人松田につづいて同車天蓋上に登り、笛を吹き、動作でもつて示すなどして、スクラムを組めと指示し、
被告人中西および同山下は、それぞれ同車の周囲を移動しながら、手を振り、あるいは肘を張るなどして、スクラムを組めとか坐りこめとかと大声をあげて指示し、
被告人小林は、ハガチー車の後部トランク付近にあつて、被告人松田らが車上に登つて坐り込みの指示等をしているさい、これと呼応して坐り込みを指示し、
b (主として包囲参加の関係)
被告人阿部、同岡部、同石井、同武田、同馬場、同舟生ならびに同渡辺は、前記(イ)記載の犯行後、ハガチー車を取り巻くデモ隊の中にいたが、右被告人松田らが前記のごとき指示を行なうやこれに従い、同被告人らと意思相通じ共謀のうえ、それぞれハガチー車の主として右斜め前方から左側にかけてその周辺に坐り込んだり、またはスクラムを組んだりなどして同車の包囲に加わり、
2 (弁天橋残留学生部隊の合流、包囲)
その間、前記のごとく、いち早く主としてハガチー車の前方ないし右側に殺到して行つた数十名の一部弁天橋残留学生部隊に引き続いて、およそ一、〇〇〇名余の右残留学生デモ隊が、弁天橋橋上を殆んど空にして、大挙ハガチー車の前方または右側に押し寄せたが、
被告人清野は、これら学生部隊とともにハガチー車の前方に取りつき、その前後ころ被告人松田、同中村が前記のごとく車上に登つて主として左側面のデモ隊に対し坐り込みの指示をしていたので、自らもハガチー車の前方からそのボンネツト上に登り、被告人松田らと意思相通じ共謀のうえ、喧騒をきわめている右学生らに対し、ハガチー車の前方進路に出てスクラムを組みまたは坐り込むよう指揮をし、かつ、その後、救援の警察官がハガチー車の近辺に馳けつけるころまでの間、自ら音頭をとつて、インターナシヨナルを高唱させ、あるいは「ゴーホーム、ハガチー」と繰り返えしシユプレヒコールを行なつて包囲陣の気勢をあげ、
被告人青木は、被告人清野ら前記弁天橋残留学生部隊一、〇〇〇名余とともにハガチー車周辺に馳けつけるや、いち早くハガチー車に取りつき、ハガチー車の天蓋上からデモ隊に対し坐り込み等の指示をしている前記被告人松田らと意思相通じ共謀のうえ、周辺に群がる学生部隊に対し、車から離れて坐り込むよう指示し、かつ、ハガチー車周辺を移動しながら自らもまた同車包囲の一員としてこれに加わり、
3 (学生派遣部隊ならびにターミナルビル方向よりの東京共斗部隊の反転合流)
被告人黒羽は、大曲付近でハガチー車とすれ違い、算を乱してその後を追つた前記学生派遣部隊とともにハガチー車周辺にかけ戻り、ハガチー車右斜前方より包囲陣をかき分けて同車右前方に近づき、被告人清野がボンネツト上からハガチー車前方から右側にかけての学生部隊に坐りこみの指揮をしており、他方これに即応して、ハガチー車前方にいた学生部隊が、そのころまだハガチー車の前で停車したままデモ隊に囲まれていた先導車を道をあけて押し出し、そのあとに坐りこんでいる情景を見、被告人清野らと意思相通じたうえ、前記共謀に加担し、そのころハガチー車の右前方付近で、まだ立つているデモ隊員に向い、「坐れ、坐れ」と指示をし、つづいてハガチー車の前方からボンネツト上に登り、その後、同日午後四時六分ころ第三機動隊の警察官がハガチー車の前方で第二回目の実力行使をするころまでの間、主として被告人清野らとともに前面の学生部隊に対し坐りこみ等の指揮をし、
被告人中川は、前示のごとく国際線中央フインガー付近で国民会議代表団と合流したが、ハガチー車の出発したことを聞き、ターミナルビル正面出入口から、国民会議代表団の者とともに、いつたん東京地評のバスで大曲付近まで来たが、進行不能となつて下車し、同所からランプ内を馳け戻り、被告人黒羽と前後して、ハガチー車の右側付近から「東京地評の中川だ、坐れ、坐れ」と言いながら群衆をかき分けて同車の右側前方助手台付近に近づき、折柄ハガチー車の右側に接するあたりにはデモ隊が坐りこんでおり、また目前で被告人清野がボンネツト上で坐りこみの指揮などをしているところから、同被告人らと意思を共通にして前記共謀に加わり、国民会議の代表団とともにハガチー秘書に対し整然と抗議する目的をもつて、ハガチー車に向つて後方から押して来るデモ隊に対し、「押してはいかん、坐れ、坐れ」などと指示し、その後自らハガチー車の前方に坐りこんでいる学生部隊の間をぬつて同車の左側前方に出、その間ハガチー車の車体上に登ろうとするカメラマンの足を引つ張る等してこれを制止する一方、ハガチー車の左側付近にいた総評オルグの西田節に命じて押し寄せて来るデモ隊を坐りこませる等の措置をとらせるとともに、その後は自らもハガチー車の包囲に加わり、
被告人山本は、大曲付近でハガチー車とすれ違つた後、被告人黒羽と前後してハガチー車停止現場付近に馳け戻り、その右側付近からハガチー車に近づき、やがてその右前方付近で同車に対面してこれを包囲するデモ隊の中に、反転にさいしてばらばらになつてしまつた都立大学の学生が、ひとかたまりとなつて坐りこんでいるのを発見したので、前記被告人清野、同黒羽らと意思を共通にして共謀のうえ、右学生らの中に自らも坐りこみを実行して右包囲に加わり、
4 (その他のデモ隊等の合流、包囲)
前記のごとく、ハガチー車の空港出発後、国民会議の代表団約三、四十名が東京地評のバスでターミナルビルを出発したのをはじめ、ターミナルビル方面にいたその他のデモ隊も、間もなくハガチー車停止現場に到着し、また稲荷橋方面で待機していた東京共斗部隊の約三、四千名のうち大部分は、おおむね同日午後三時五五分ころ弁天橋付近の事件を知り、その後同橋に向つてかけつけて逐次前記包囲陣に合流したが、その間において、被告人長谷川は、前記のごとく弁天橋に残留していた学生部隊一、〇〇〇余名が現場に馳けつけて包囲陣に合流した後、弁天橋の東詰の検問所付近から単身おもむろにハガチー車の停止位置に向い、同車に蝟集しているデモ隊のなかをかき分けてハガチー車に近づき、被告人黒羽が同車のボンネツト上に登り、被告人清野、同中西、同青木らが、ハガチー車の前方に立つて前面のデモ隊と向き合つているころその付近に進み寄り、同被告人らと暗黙のうちに意思を共通にして、前記共謀に加わり、自らハガチー車の主として左側に位置し、その後第三機動隊がハガチー秘書救援のため現場にかけつけて坐りこんでいるデモ隊を排除しようとするとき、これに抗議の申し入れをするなどしてハガチー車の包囲に加わり、
被告人津金は、弁天橋検問所前でハガチー車周辺にかけつける前記一、〇〇〇余名の弁天橋残留部隊を見送つた後、自らも同車周辺に行き、多数デモ隊員が坐りこんだりして同車を取り囲んでいる状況を見、これら被告人松田ないし同清野らの指示に従い同被告人らと共謀してハガチー車を取り囲んでいる付近デモ隊員と意思を共通にして被告人松田、同清野らの前記共謀に加担し、ハガチー車左側に坐りこんでいるデモ隊のうしろに接着して立ち、あるいはその周辺を移動したりしてハガチー車の包囲に加わり、
被告人飯島は、そのころ弁天橋よりハガチー車の停止地点に到り、さきに同地点にかけつけた前記弁天橋残留学生部隊その他のデモ隊によりハガチー車が包囲されている状況を目撃して、被告人津金同様付近の包囲デモ隊員と前記意思を共通にして被告人松田、同清野らの前記共謀に加担し、ハガチー車の左側に坐りこんでいるデモ隊員に接着して立ち、またハガチー秘書の救援にかけつけた警察官の実力行使にあたつては、周囲のデモ隊員と一緒になつてこれに対峙するなどしてハガチー車の包囲に加わり、
5 (日共部隊の合流、包囲)
被告人安東は、前記のごとく、東京共斗部隊の増援部隊の第一梯団の先頭に立つてターミナルビルに向い、国民会議代表団と合流した直後ハガチー車の出発を知り、約四〇名の日共党員とともに隊伍を組み徒歩で大曲を経て地下道付近に到り、そこからランプ内に入つて弁天橋方向に向つたが、途中地下道を越したあたりに来たころ、弁天橋三差路東寄りの地点付近で、同被告人らの前方を馳けて行つた前記東京共斗部隊その他のデモ隊の大群によつてハガチー車が取り囲まれて阻止されている状況を目撃し、かつ、そのころそれがハガチー車であることを知り、同被告人らの一行からもその方へ馳けて行つてその包囲に合流するものも出たが、同被告人らはその現場を左に見ながらランプ内を西進して舗装道路に出で、同日午後四時五分ころ弁天橋検問所北東の三差路上に到り、右合流党員を介し、ハガチー車の進行を阻止している右包囲デモ隊と意思相通じて前記共謀に加担し、同所で前記包囲に合流したものを除くその余の日共党員らとともに、ハガチー車の方向に向つて四、五列の隊列を組み、その先頭部に横幕等二、三本を立て、ハガチー車の前方進路を阻止する態勢をとつて待ち構えた。
6 (警察官の救援――犯罪の終了時期)
一方、これに対し、後出(二)記載のごとく、同日午後三時五七分ころ第三機動隊が事件発生現場に到着したのを初めとして、当日羽田空港およびその周辺で警備配置についていた機動隊および警察隊は、第二方面警備本部長の出動命令を受けて、ハガチー秘書らを救出するため続ぞくと現場に到着し、午後四時一五分ころにはデモ隊の抵抗を排除してハガチー車に取りつき、その周囲を警察官で取り囲んでハガチー車を防護することに成功した。
しかしながら、ハガチー車に近接する周辺から追い払われたデモ隊員は、なお依然として、ハガチー車を防護している警察官の外側を取り巻き、ハガチー車の進行を阻止する態勢を崩さず、警察官が、ハガチー車をその随員車とともに、包むようにして徐じよに手で押し進めるや、その進路に立ち塞がり、あるいはスクラムを組んで警察官に体当りを行なうなどして、その推進を妨害し、その行為は、ハガチー車が最初に停止した地点から稲荷橋方向に約五〇米余前進して最終的に停止した同日午後四時三〇分ころまで続いた。
かくて、被告人女屋を除くその余の被告人全員は、意思を共通にするハガチー車包囲の多数デモ隊員と共謀のうえ、前記のごとく、警察官がハガチー車を取り囲んでその防護に成功した同日午後四時一五分ころまで、ハガチー秘書、マツカーサー大使、スチーブンズ秘書、米人護衛官および愛甲運転手をハガチー車内に閉じこめて不法に監禁し、かつ同日午後四時三〇分ころまで愛甲運転手の自動車運行業務を威力を用いて妨害し、
(二) 公務執行妨害、傷害関係
第二方面警備本部においては、前記事件発生の報を受け、同日午後三時五三分ころ指揮下の全部隊に対し、ハガチー秘書救出のため事件発生現場たる弁天橋三差路付近に出動することを命じた。そのころの各警察部隊の配置は、おおむね前記一、(五)、(ロ)記載のとおりであつたが、そのころ既に稲荷橋東詰に前進していた第三機動隊長木村正一は、弁天橋方向に発生した異常な状況を望見し、右警備本部からの全隊出動命令を待たず、自己の指揮する隊員を率いて舗装道路上を弁天橋方向に急行し、途中デモ隊をよけて天皇道路入口より手前約七、八十米の地点で柵を越えて、ランプ内に入り、天皇道路入口のやや北方付近からハガチー車を包囲しているデモ隊に接近し、同日午後三時五七分ころ坐り込んだり、シユプレヒコールを行なつて気勢をあげているデモ隊の背後に進出した。また、本所大隊長大津貞一の指揮する隊員も、全隊出動命令を受けるや、稲荷橋東詰北方の空港警察署から輸送車で出発し、途中下車したうえ、第三機動隊のあとにつづいて同四時すぎころ天皇道路入口付近に到着し、他方、第二機動隊長外川浅次郎の率いる警察官は、ターミナルビル方面から自動車で地下道とオペレーシヨンセンターの中間辺りまで来たが、進行不能となつて下車し、ランプ内に入り、同四時五分ころ天皇道路入口付近の現場に到着し、その他の部隊も逐次現場に急行した。
右第三機動隊が右現場に到着した同日午後三時五七分ころ、被告人青木は、デモ隊に包囲されたまま停車していたハガチー車の進路前方で、坐り込んでいるデモ隊の方を向いて立つており、被告人山本は、前示二、(一)、(ロ)、3記載のとおり、ハガチー車の右前方に坐り込んでいるデモ隊にまじつて坐つており、また被告人中川は、ハガチー車の左前方に立つていたが、右被告人らとともにハガチー車周辺にいたデモ隊は、第三機動隊がその背後に迫つて来たのを知つて騒然となり、警察官から電気メガホンをもつて、「警察官に乱暴をしてはいけない、自動車を取り巻いている者は、これから解散しなさい。」などと警告されたにもかかわらず口ぐちに「お前ら婦れ」「何しに来たポリ公」と罵声をあびせ、右警察官が実力をもつて坐り込みデモ隊を排除する態勢を示すや、ハガチー車のボンネツト上に立つていた学生部隊の指揮者(黒羽)は、笛を吹いてこれに抗議するとともに周囲のデモ隊に警告を与え、かつ、これら警察官の実力排除に対しては実力をもつて抵抗すべきことを暗に指示し、被告人山本においては、前記の場所にあつて、周囲のデモ隊に対し「スクラムを組め」「しつかり坐り込みをしろ」と呼びかけながら自らもその向きを背後に迫る警察官の方に変えて坐り直おし、被告人青木も、また、興奮して立ちあがるデモ隊に対し、手を振りながら「静まれ」などと叱咤し、被告人中川は、警察官の実力行使を見て憤激し、ここに右被告人ら三名は、前記指揮者およびハガチー車の周辺でこれを取りまくデモ隊中意思を同じくする者と順次意思相通じ、ハガチー秘書らを救出するため出動して来た警察官に対し、実力をもつてこれに抵抗し、その行動を妨害しようと企て、共謀のうえ、同日午後三時五七分を多少過ぎて第三機動隊が第一回目の実力行使をした前後ころから午後四時五〇分ころハガチー秘書らがヘリコプターで脱出するまでの間、前記二、(一)、(ロ)、6記載のごとくハガチー車が最初に停止した地点から最終的に停止した地点にかけて、同車周辺およびその付近において、坐り込みデモ隊等を排除してハガチー車を防護しようとする右第三機動隊をはじめその後に馳けつけた本所大隊、第二機動隊その他の警察官に対し、石を投げ、棒で突きまたは叩き、スクラムを組んで体当りし、足で蹴るなどの暴行を加え、その暴行は、その後も、前記のごとく右警察官がハガチー車を取り囲み、これを推進して行くころからハガチー秘書らがヘリコプターで脱出するころまで、引き続いて行なわれ、そのさい別紙「受傷警察官一覧表」記載の各警察官に対して、同表中「デモ隊の抵抗状況」記載のような暴行が加えられたが、その間において、
(イ) 被告人山本は、同日午後三時五七分すぎころ、天皇道路入口よりやや地下道寄りの地点において、右第三機動隊警察官箱山好猷および同三橋清五郎が、隊長の命令により同被告人の左右からその腕および肩のあたりを掴んで排除しようとしたさい、同警察官らに対し、靴ばきのまま、その向ずねを交互に数回蹴りつけ、
(ロ) 被告人青木は、その後右第三機動隊が、同日午後四時六分ころ、第二回目の実力行使をする直前ころ、同被告人の前記位置付近から、ハガチー車の周辺のデモ隊が投石するのにまじまり、待機している右第三機動隊の警察官に向つて投石し、
(ハ) 被告人中川は、その後同日午後四時一〇分ころ、第三機動隊がハガチー車周辺のデモ隊を規制中、同隊とともにデモ隊を排除していた同隊の警察官薗部博喜(旧姓前田)に対し、スクラムを組んだ学生らの前方に立つて押し寄せ、「警察官は乱暴するな」などと怒号しながら、同警察官の胸倉を掴んで数回引つぱつたり押したりし、さらに加勢に来た同隊警察官森杉美宣に対し「お前何しに来たんだ、帰れ。」などと叫んで同警察官の手を払いのけ、両手で同警察官の身体を突いたり、押したりする等
の各暴行を加え、もつて前記デモ隊らと共同して右第三機動隊長木村正一ら警察官の公務の執行を妨害し、被告人青木において、右各共謀にかかる暴行により、別紙「受傷警察官一覧表」記載のとおり、警視庁巡査国分利正外二二名の警察官に対し、同表記載の各傷害を負わせ、
(三) 被告人女屋の幇助行為
被告人女屋は、前記のごとく弁天橋残留学生部隊約一、〇〇〇名がハガチー車包囲陣に参加するため事件発生現場にかけつけたころ、弁天橋西詰十字路あたりで、立教大学の学生らとともに、空港内に入ろうとする民学同学生らの進出を阻止し、いわゆる抗議行動側の学生を指揮していたが、同日午後三時五八分ころハガチー秘書ら救出の命令を受けて転進して来た第五機動隊長末松実雄以下の警察官が海老取川西岸を通つて弁天橋西詰に到着するや、被告人青木、同清野ら弁天橋残留学生部隊およびその他のデモ隊のため、同橋東側三差路東方道路上でハガチー車が進行を阻止され、これがため右第五機動隊員がその救援に赴くものであることの情を知りながら、右被告人青木らの犯行を容易にする目的をもつて、同隊の空港への進出を実力をもつて阻止しようと企て、自ら弁天橋西詰付近のらんかん上に登り、メガホンをもつて橋上に西向きになつて警察官と対峙する学生デモ隊に対し「この警察官を奥へ通せば我われの仲間が弾圧されるから絶対に通してはいけない。皆坐り込め。」などと指揮してこれをその場に坐りこませるなどして、その後同日午後四時一三分ころまで右第五機動隊の空港への進入をその場に阻止し、もつてその間右被告人青木らの前記二、(一)、(ロ)記載の各犯行を容易ならしめてこれを幇助し、
(四) 民学同バス関係
被告人安東は、昭和三五年六月一〇日午後二時一五分ころ前記弁天橋西詰付近において、同日の羽田動員に参加して弁天橋上より同西詰道路上にかけて待機していた学生部隊のデモ隊員らが、折柄ハガチー秘書歓迎に向う民学同所属学生数十名を乗せ、社命を帯びて羽田空港ビルに向つて進行して来た相原明の運転するニユー東京観光バス(二あ、〇九〇九号)を、その進路前方に立ち塞がつてその空港への入港を阻止するとともにその周囲を取り巻き、車内の学生と互に罵声を浴びせ合つて喧騒を極めている状況を目撃するや、同バスに近づき、右相原運転手が仕事で来たものゆえ道をあけてもらいたいと訴えているにもかかわらず、ハガチー秘書の歓迎に向うバスは入港を阻止すべきであるとし、右バスを取り巻く学生部隊のデモ隊員らと互に意思相通じ共謀のうえ、これら学生らとともに同バスの進行を阻止し、かつ、同学生デモ隊員らが、車内の学生らに対し口ぐちに「降りろ降りろ」「お前らは自民党の犬だ」などと罵り、手、旗竿等で車体、窓ガラス等を乱打し、同バス(昭和三七年押第二六五号の二九はその破片)等を損壊するとともに、その身体等に危害を加えるような気勢を示していた間、被告人安東においては、同バスの右前方小窓付近に行き、相原運転手に対し、「ここは通れないぞ」「引きかえせ」などと申し向け、さらに、自ら手でぱんぱん車体を叩いて歩き、右のごときデモ隊員らの行動により、車内にいた前記民学同学生達は、身に危険を感じ、つぎつぎに昇降口あるいは非常口さらに窓からも飛び降りるにいたつたが、ただ一人民学同書記長松岡一敏のみ車内にとどまり、あくまでバスを入港させようと頑張つている姿を見て、付近にいた二、三のデモ隊員が、非常口から車内に入り、右松岡を車外に連れ出そうとしたが、同人が口実を構えてなおも車内に踏みとどまろうとするに及んで、憤然として自ら車内に乗り込んで行き、右松岡に対し「お前下げろ」「君が出ないとえらいことになるぞ」「外の連中はバスを引つくり返えすといつているぞ」などと申し向けて同人を屈服させ、同日午後二時三三分ころ相原運転手をして同バスを後退するの余儀なきにいたらせ、もつて多衆の威力を示し、かつ、多数共同して右松岡ほか前記民学同学生らを脅迫するとともに右バスの窓ガラス等を損壊し、かつ、威力を用いて右相原明の自動車運行の業務を妨害したものである。
第三証拠の標目(略)
第四事実上の争点
一 ハガチー車の停止原因
ハガチー車が停止した当時の状況については、判示第二、二、(一)に認定したとおりであるが、ハガチー車の停止原因については、検察官と弁護人との間に大きな見解の相違があるので、当裁判所は、右認定の理由につき、以下にその証拠説明を加えておくこととする。
(イ) 写五5、写六八1、写四7を対比検討すると、写五5の手前に大きく写つている地下道方向に向いている報道関係らしき車(以下対向車という。)の向う側の所属不明車は、この写真のころにはすでに停止しており、この車の後に続いて来ていた西日本新聞社の車は、写五5、写六八1、写四7の順序を経て写四7の段階で停止するにいたつたが、右対向車は、このころにはまだ僅かながら動いていたことが認められる。もつとも、写六一18、19に徴すると、右対向車もその直後には写四7に写つているバス停標識の手前付近で停止していることが知られる。そこでこれらの車の停止するにいたつた原因を探究するに、まず右写六一18、19および写四7によつて右各車の相互の位置的関係を見ると、所属不明車は、天皇道路入口より地下道寄りの地点で同道路入口の方に頭を向け、センターラインを完全に右に越して停車し、つづいて西日本新聞社の車が約半車身の間隔をおきハンドルを左に切りその車体後部を反対側車道に残して停車し、対向車は、右両車の中間の位置に停車しており、かつ、所属不明車がセンターラインを大きく右に越している関係上、地下道に向う車道の外側の線に殆んど接する位に片寄つて停止していることが認められる。ところでこの三車の位置的関係と証人鈴木武一郎の証言(九〇)および写五5、写六八1、写四7を総合すると、西日本新聞社の車は、「川労協」の旗を中心とする神奈川部隊のデモ隊の一団が、列を乱してその左右にいるデモ隊よりも深く車道に押し出して来たため、これを避けて右ハンドルを切り、一たん大きく反対側車道に出たが、進行方向前面に対向車を認め、さらに左にハンドルを切つたところ、その進路前方には所属不明車がとまつていたので、遂に停車するの余儀なきにいたつたと断定するのを相当とする。(鈴木証人は、反対側車道に出たとき、前方に対向車のあつたことを記憶しないと述べているが、写五5によつて認められる当時の両車の間の状況からして、同証人は当時その進路前方に対向車のあることを認め、さらにハンドルを左に切つたと認めるを相当とし、従つて、同証人はその後何等かの理由で右の点についての記憶をなくしたものと考えざるを得ない。)
(ロ) 先行する所属不明車と対向車とは、前顕各写真から判断すると、そのまま互に進行して行つても、普通ならば、支障なくすれ違うことができたであろうと思われる。ところが写五5によると、右先行車たる所属不明車の前面には神奈川部隊と思われるデモ隊員が立ち塞がつていて、その中の一員から白い横幕の一端の棒が振りおろされており、それが写四7では完全に車のボンネツトの前端に接触しておるが、他方右神奈川部隊の左端からは白鉢巻白たすき姿の関西部隊が車の前面に横に拡がつて押し迫つている状景が認められる。証人山本繁の証言(二八、二九)および右写五5、写四7ならびに判示第二、一、(六)、(ロ)において認定したハガチー車出現直前の関西部隊の入港状況および写六一18、19によつて認められる所属不明車の停止地点等から考えると、右の関西部隊は判示南側車道上を斜めに横断して進行していた大阪部隊の一部であり、これらのデモ隊員はその進行していた天皇道路入口よりも弁天橋寄りの地点から、同入口より地下道寄りである右所属不明車の前面に向け押し寄せて来たものであり、かつ、この押し寄せて来たデモ隊の中には、そのころ徐じよに動いていた対向車の後ろに付いて進んで来たものもあることが認められる。とすれば、右所属不明車の停車原因は、対向車がすれ違うごとくに進行して来たことにもよるが、それよりも神奈川部隊がその前面および左側に立ちならんでおり、かつ、大阪部隊が前面から押し寄せて来たことに大きな原因があるといわねばならない。
(ハ) 判示第二、一、(六)、(ロ)において認定した弁天橋東方多摩川寄り車道上における神奈川部隊の待機中の態勢から見て、写五5、および写六八1の「川労協」の旗を中心とする神奈川部隊のデモ隊の一団は、明らかにその待機地点を離なれ、ハガチー車の車列に向け押し寄せているものであることを知り得る。そしてまた、証人山本繁の証言(二八、二九)によりハガチー車停止直前ころの写真と認められる写一27によると、ハガチー車の左側には、その停止直前すでに多数の神奈川部隊のデモ隊員が接着して立つている情景が認められる。そこでこれらの事実と前に説明した所属不明車、西日本新聞社の車および対向車の各停車状況ならびに証人堤正雄(一一、一二)、同愛甲義衛(一三、一四)、同溝部通夫(二五)、同山本繁(二八、二九)の各証言を総合して検討すると、ハガチー車は、それに先行する右所属不明車、西日本新聞社の車および先導車が順次停車したことと、左側からは前記のごとくデモ隊が押し寄せて来ていたため、右にハンドルを切つて停止するの余儀なきにいたつたと認めるを相当とする。弁護人主張のごとくデモ隊の行動とは直接何等の関係もなく、たまたま所属不明車が一時停止の措置を取つたがために次つぎと停車するにいたつたに過ぎないと判断することはできない。しかし、また、前顕写五5、写六八1、写四7の各写真およびハガチー車停止直前の写一27、NTVのマイクを持つた人物が車の前に立つているのですでにハガチー車は停止していると認められる写一28(この人物は、写五5ではバス停標識の手前におり、写四7では同標識の向う側に進んでいる。)によると、ハガチー車の車列がデモ隊の殺到によつて停車したと認めることは困難である。もつとも、写四八33にはデモ隊の殺到する光景が写されており、デモ隊の殺到によりハガチー車が停止したかのごとき証言をする者もいるが、証人高田竹雄の証言(五一)によると、右写四八33は弁天橋の近くにいたデモ隊の殺到状況であるところ、所属不明車は、これらデモ隊よりもハガチー車の車列に近いところにいた前述大阪部隊のデモ隊が同車列に向つて前面から押し寄せたころに停止しており、また提出された各写真を検討すると、ハガチー車の前面に最初に取り付いたデモ隊は、この押し寄せて行つた大阪部隊のデモ隊員であると認められる(写四7の右端近くにいる白鉢巻白だすき色物格子縞のオープンシヤツの人物と写一29のハガチー車前面に取り付いている同一服装の人物に着目)のであるが、その時期は、ハガチー車の停止した後であることは、前記写一28と写一29との撮影の前後関係に徴して明白である。とすれば、写四八33等のデモ隊の殺到は、ハガチー車の車列の停止には直接の影響を及ぼさない地点あるいはその停止直後における現象であると認めざるを得ない。検察官がデモ隊の殺到によりハガチー車を停止させたとする点は事実に合致しないといわねばならない。
二 いわゆる「事前共謀」の成否について
検察官は、ハガチー秘書らに対する本件事犯の共謀の態様について、全学連反主流派である被告人清野、同黒羽、同女屋、同青木、同山本と日共の被告人長谷川、同津金、同安東、同飯島および同中西との間には事前共謀が成立していた。すなわち、右全学連反主流派の学生らは、事件発生の数日前からハガチー秘書の行動を実力で妨害しようと協議しており、最終的には右日共関係被告人をも加えて、当日の事件発生の少し前ころに羽田空港内外でその共謀を遂げるにいたつたのであると釈明するとともに、以下に論ずるごとき各情況証拠上その事実は明らかであるとしているので、以下順を追つて検討する。
(一) 本件羽田動員に対する日共および都自連の取り組み方
検察官は、日共ではかねてから安保斗争はアメリカ帝国主義との斗争であり、これによつて、国際的反帝統一戦線の有力な一翼を担い、国際連帯上の責務を果すと同時に、国内的には、アメリカ帝国主義によつて支持されている岸内閣を打倒し、日本の支配階級に打ち勝つことをねらいとしていたので、六月一〇日のハガチー秘書の来日に当つては、国民会議の集団示威行動の機会を利用して同秘書に対する強力な示威行動を展開しようと意図するにいたつたものであると主張する。ところで、日共がかねてから安保斗争をもつてアメリカ帝国主義との斗争であるとし、対米斗争の必要性を強調していたことは、証人岩間正男(一〇三)の証言、一九五九年一二月八日付アカハタ(押第二六五号の一二八)の主張欄の記載に徴し明らかである。しかしながら、国民会議においてもまた判示五月一九日のいわゆる強行採決後は、対米抗議行動を安保斗争の大きな柱の一つとして取りあげるにいたつたことは判示第二、一、(三)、(ハ)において認定したとおりであつて、六月一〇日のハガチー秘書来日に対する羽田動員の時点においては少なくとも対米抗議行動を安保斗争の方法として取りあげるべきであるとする点においては、右両者は完全に合致するにいたつていたといわねばならない。
そしてまた、日共は、安保斗争をもつて民族民主統一戦線結成の好機と考え、その広汎、強力な斗争の盛りあがりに大きな期待を寄せていたので、官憲に弾圧の口実を与える事態の発生することを警戒し、そのため第八次統一行動以後における全学連主流派の行動に対してはこれを極左冒険主義を主張するトロツキストの挑発的行動、利敵行為であるときめつけ、強い態度でこれを非難するとともに、安保斗争は常に統一された秩序整然たる抗議行動によつてなさるべきであつて、物理的な実力阻止をもつてしてはその目的を達成し得るものではないと態度を明らかにしていたのであつて、この事実は証人岩間正男の証言(一〇三)、被告人長谷川浩の当公判廷における供述ならびに押収にかかる「アカハタ」の主張欄の各記載(昭和三四年一二月五日付、同一二月八日付、同一二月一二日付、同一二月二九日付、同三五年一月一五日付、同六月一五日付のもの――押第二六五号の一二七ないし一三一、一三六)および同三四年一一月三〇日付「アカハタ」掲載の同年一一月二八日の日共声明(前押号の一二五)によつてこれを認めることができる。
このように見て来ると、日共においては、本件羽田動員につき、国民会議の決定した線を越えて、実力阻止をも辞さないとするほどに強力な抗議行動を企図していたとの疑いはむしろ極めて薄いといわねばならない。
もつとも、日共板橋地区委員会のビラ(前押号の三一)には「一〇日のハガチー来日を機会にアイク訪日断念の運動を強く広く展開せねばならない」旨の記載があるが、他方同ビルの冒頭には、当日は国民会議の第一八次統一行動の一環としての日程行動を実施する趣旨の記載もあるので、この文書の存在することから、直ちに、日共においては、本件羽田動員に当つて従来の方針を一てきしてハガチー秘書の行動を実力をもつて阻止することを企図するにいたつたと認めることのできないことはいうまでもない。
つぎに、検察官は、都自連名義等で事前に作成された文書の中にハガチー秘書の行動を実力で妨害することを企図していたとうかがい得るものがあるとしているので、この点について検討する。
都自連名義のビラで「ハガチーを日本人民の怒りで包囲しよう!」(前押号の九三)、法政大学文学部、社会学部自治会のビラで「25万のデモでハガチーを追い出せ」(同号の七七)と題するものおよび同大学文学部自治会のビラで「許すな、アイゼンハワーの訪日を」と題し「アイク訪日阻止の斗いはハガチーを抗議とデモの嵐で迎えることによつて開始される」「実質上アイゼンハワーが日本の土をふめない事態を醸成しよう」(同号の七四)と呼びかけているものなどがあるが、これらのビラはその文書の内容を見ると、いずれも多分に比喩的であり、抽象的であつて、弁護人のいわゆる単なる「政治的アピール」ないし「大衆行動における政治的アジテーシヨン」に過ぎないと解するを相当とする。しかしながら、都自連のビラで、「六月一〇日には、アイク来日の露払いとしてハガチー新聞係秘書が来訪する。いうまでもなく、これはアイク来日の下見聞であり、その安全度の打診である。時間、コース、宿舎等一切がアイクのそれに準ずると伝えられている。われわれは、このハガチー来訪に際し、われわれ学生の断固たる抗議の意思表示を行なう必要があるであろう。秘書をして忠実な秘書の役を果さしめ、アイク来日を思いとどまらせる必要があるであろう」(同号の九四)との態度を表明するものや、法政大学文学部、社会学部自治会のビラで「アイクの新聞係秘書ハガチーは二時に羽田に来る。彼は時間、コース、宿舎等一切をアイクの行動に準ずることになつている。それ故我々がハガチーの行動を狂わせるならばアイクの来日は不可能になる。また米国当局も最終決定は、ハガチーの報告を待つて行なうという」「全法政の学友諸君羽田へ行こう! ハガチーの行動を阻止しよう!!」(同号の九六)と呼びかけているものにいたつては、単なる「政治的発言」にすぎないとして片付けてしまうわけにはいかない。したがつて、右の都自連のビラ(前押号の九四)によれば、都自連参加の各自治会としては、ハガチー秘書の来日に対し断固たる抗議の意思を抱懐していた疑いは十分にあり、また右法政大学文・社自治会のビラ(同押号の九六)によれば法政大学文学部、社会学部各自治会としては、当日のハガチー秘書の行動に何等かの支障を与えることをも辞さないとする態度であつたのではないかと思わせるものがないとはいえない。しかし、他面、都自連は、国民会議の決定した統一行動の線に添つて行動すべきものであるとして、これに従わない全学連主流派と袂を分つたものであるところの判示のごときその結成の経緯を考え、また、本件羽田動員にあたつても前記押号の九三の都自連名義のビラにおいて「国民会議の決定したこのプランを着実に実現しなければならない。」とし「われわれは全学連中執派の諸君が一〇日の斗争を放棄せぬよう心からよびかける」との態度を示しており、また、当日の行動計画としては、ハガチー秘書の羽田空港到着時刻を同日午後二時と予定しながら(法政大学文学部自治会室で差押えられた前押号の七二の都自連名義の文書および東京教育大学自治会室、都自連事務局で差押えられた前押号の九〇の文書による。なお国民会議においてもハガチー秘書の羽田到着予定時刻を同日午後二時としていたことについては、同押号の一二、三四、五九)「午後三時には清水谷公園に移動、再結集せよ!」と指示している(前記押号の九三のビラ)ところからして都自連ではハガチー秘書に対する羽田空港での抗議デモに費す時間はそれほど長くはない(羽田空港と都心にある清水谷公園との距離を考慮して)としていたものと認められ、しかもこの点は前記押号の九六のビラを作成した法政大学文学部、同社会学部各自治会としても、都自連に参加している自治会として、同一であるとせねばならない(右九六のビラにもハガチー秘書の到着予定時刻を同日午後二時とし、三時に清水谷公園結集と記載されている。)点なども考え合わせると、前記九四および九六のごときビラが作成配布されたからといつて、これをもつて都自連ないし法政大学の前記各自治会が、羽田空港においてハガチー秘書の行動を実力で阻止しようと企図していたとするには、疑問なしとしないのである。もつとも東京教育大学自治会室、都自連事務局で差押えられたノート(同押号の一〇一)には「羽田空港ハガチー一時間―二時間足どめ(カンヅメ)」との記載があるが、同ノートには作成名義がなく、単にそのノートの存在を立証するものとして提出されたものにすぎず、その作成ないし作成の経緯を明らかにする何等の証拠もないので、このノートの存在することによつて右疑問を解消することはできない。
(二) 日共および都自連の事後評価のビラについて
日共が押第二六五号の三九のビラにおいて六月一〇日の大衆行動は「英雄的な意思表示であつた」とし、また、日共神奈川県委員会が同押号の四〇の声明書において「安保斗争の初歩的勝利をかちとる上で大きな役割を果した英雄的な愛国斗争である、」とし、日共農工大学細胞が、同五四の文書において、「この中でのデモ隊からの投石等々は戦後数々の屈辱的政策に対する日本人民の怒りの現われである、」とし、一方都自連が同五五のビラにおいて、「正当な任務を遂行した、」とし同八一のビラで「三万の労働者、学生は、空港入口でハガチーを包囲し、直接に激しい抗議の意志表示をおこなつた、」また同一〇五のビラにおいて、「アイクの訪日に抗議するデモを敢行した。これはハガチー氏自身に対するシヨツクにとどまるものではない、」などと評価し、法政大学文学部自治会でも同七三のビラにおいて、「ハガチーは、この日本人民の統一した斗いに色を失い」うんぬんとそれぞれ評価ないし見解の表明をしていることが認められる。
検察官は、これら事後になされた評価、見解自体によつて日共または都自連において、ハガチー秘書に対し、その進行を阻止する実力行使の意図のあつたことが裏書されていると主張する。そこで前示各文書をその表現の仕方だけから考えると、その中にはあたかも事前に企図したところを実行に移したかのごとき感じを与えるものがないではない。しかしながら、それらの文書もその内容を些細に検討すれば、その語調、表現において独特の激しさは認められるが、いずれも、これを要するに国民会議第一八次統一行動における六月一〇日のハガチー秘書に対する大衆行動を成功ないし勝利であると評価し、または、すでに発生した事件について、その原因ないし責任は相手方にありとして、デモ隊の行動を正当視せんとするいわば自己弁護的見解の表明に過ぎないものであることが明らかである。日共においては、かねてからこのような実力行動を戒めていたことは前に説示したとおりであり、羽田動員の段階において、その方針を一てきしたと認むべき証拠のないことおよび都自連が国民会議の決定した線に沿つて行動する方針のもとに結成せられたものであることも前に説明したごとくであるところ、本件事犯が発生した当時日共神奈川県委員長であつた被告人中西は判示のごとくハガチー車周辺で暴行するデモ隊を極力制止していたことも明らかであつて、これらの点と対比して考えると、前記のごとき内容の事後評価に関する文書があるからといつて、これによつて日共および都自連が事前にハガチー秘書の行動を実力をもつて阻止する意図を有していたことを窺い知り得るとすることは早計の譏りを免れないであろう。
(三) 要請文について
証人岩垂寿喜男(八六)、同兼田富太郎(八八)の各証言によれば、六月一〇日空港ロビーに赴いた国民会議代表団は、ハガチー秘書に面会を求めて要請文を手渡す計画であつたことが明らかである。ところが、証人林弘(八二)、同楠本晟(八二)の各証言および被告人黒羽、同山本、同青木の当公判廷における各供述ならびに一九六〇年六月八日付都自連名義の「声明」と題する書面(書証第三冊一九丁)および写五27(被告人黒羽)、写九4(同山本)、写一五16(同青木)によると、都自連および都立大学では、それぞれ国民会議で作成する前記要請文とは別個にハガチー秘書に託する声明書または英文の抗議文を作成準備し、六月一〇日の羽田動員にあたり、被告人黒羽、同山本および同青木において、それぞれこれを持つてその動員に参加したことが認められる。とすれば、都自連においては、当日ハガチー秘書に対し右声明書または抗議文を手交する意図があつたと認められないではない。しかしながら証人菅沼真吾(八三)、同木村竜男(八五)、同手島和史(八五)各証言、被告人黒羽、同山本および同青木の当公判廷における各供述によると、都自連および都立大学においては、前記声明書ないし抗議文を作成準備はしたものの、ハガチー秘書にこれを手交する場所、方法等については何等具体的に決定しておらず、ただ機会があれば渡すという程度のものであつたと認められる。そしてまた、当日判示のごとくハガチー車が停車するの余儀なき事態が発生し、次いでデモ隊員がこれを取り巻き、その発進を阻止するにいたつたのであるが、そのさい右被告人らは、いずれもそのハガチー車に接着または近接しており、右声明書または抗議文をハガチー秘書に手交したいと思えば直ちにその行動に出ることができる場所におつたにもかかわらず、結局その場では、これを渡さず、被告人山本のごときは、「今は混乱しているから今は渡さない」といつてこれを渡そうとしなかつた事実も認められ、かつまた「都自連決定事項」と題する書面(押第二六五号の七二)、前顕押第二六五号の九六の文書によると、都自連においては六月一〇日の羽田動員に引き続き第二次行動として清水谷公園に再結集し、アメリカ大使館およびハガチー秘書の宿舎周辺において終電まで抗議行動を行なう計画をしていたことが認められるので、これらの事実を併せ考えると、右被告人らが声明書または抗議文を携えて羽田動員に参加していたからといつて、これをもつて直ちに、都自運が、羽田空港またはその周辺において、ハガチー秘書に対し、実力をもつてしてでも必ずこれを手交する意図を有していたとすることには疑問があるといわねばならない。
以上の説明によつて明らかなとおり、日共および都自運においては、安保斗争をもつてアメリカ帝国主義との斗争であるとするその基本的見解等から考えて、ハガチー秘書に対する本件羽田動員についての取り組み方には相当強いものがあつたことは疑いを容れないが、それであるからといつて、国民会議の決定した線を越えて、実力をもつて同秘書の行動を阻止する意図を有していたと認めるべき証拠は十分でない。そこで進んで本件事件発生当日の状況の検討に移ることとする。
(四) 学生部隊の弁天橋進出について
検察官は、学生部隊が蒲田消防署羽田出張所付近から弁天橋に進出したのは、被告人黒羽を総指揮者とする学生部隊独自の行動であつて、国民会議現地指導部の指示によるものではなく、被告人長谷川の指示に従つたものであると主張する。そして証人野崎照夫(四六)および同川合良展(四六)の各証言によると、当日、学生部隊が蒲田消防署羽田出張所付近から弁天橋まで進出したさい、被告人長谷川がこれに同行し、その途中弁天橋西方の羽田小学校前付近で学生部隊が一応停止したとき、その隊列の先頭前面で学生部隊の指導者らと地図を拡げて話し合つていた事実が認められる。(野崎証人速記録三ないし五丁、川合証人速記録三丁参照)。しかしながら証人竹内基浩(七九)、同荒井勇生(七八)、同高津登志彦(七八)、同大沢三郎(九二)の各証言および被告人長谷川の当公判廷における供述によると、学生部隊の弁天橋方面に前進したのは、国民会議現地指導部の指示によるものであつて、その前進地点は一応羽田小学校前とされていたところ、学生部隊指導者においては羽田小学校の位置が判明しなかつたため、前記のごとく、部隊を一応停止させ、被告人長谷川も加わつて地図を拡げてその地点を確認していたものであることが知られる。そして、その後学生部隊は、さらに前進して弁天橋にまで進出したが、これもまた国民会議現地指導部の指示によるものであることは判示第二、一、(六)、(イ)、4、aにおいて認定したとおりである。
この点について、当日国民会議現地指導部の一員であつた前記大沢都議は証人(九二)として、国民会議現地指導部においては、稲荷橋および弁天橋までの進出については指示していない旨の証言をしているが、この点についての右証言は、証人竹内基浩(七九)、同岩垂寿喜男(六八)、同荒井勇生(七八)、同高津登志彦(七八)の各証言に徴し、措信できない。また、右大沢証人(九二)は、国民会議現地指導部としては、学生部隊がその指揮掌握下にあるものとは考えていなかつたとも証言しているが(速記録五二丁参照)、この点については、他の部分で、「自分らが稲荷橋にいた時、空港ロビーの方から国民会議代表団を右翼から護るため約一、〇〇〇名の増援部隊の派遣方を求められ、大柴、田中と相談のうえ、五〇〇名を派遣することとし、そのうち三〇〇名を稲荷橋にいる労働組合から、また二〇〇名を弁天橋にいる学生部隊から出すこととし、自分は全ていの車から社会党の東京都連の車に乗りかえて弁天橋の方に行き、マイクで学生にその旨を伝え、間違いなく二〇〇名を派遣されたいと要請した」旨をも証言しているのであつて(速記録一九ないし二三丁参照)、ここに大沢証人のいうところの要請とは、右増援部隊派遣の経緯から考えて、学生部隊が当然右要請に応ずることを見越したうえにおける計算ずみでの要請であつたと解するを相当とするので、当時の国民会議現地指導部においては、弁天橋にいる学生部隊は実質上その指揮掌握下に行動する部隊として取り扱つていたとせねばならない。この点に反する大沢証人の前記証言部分は措信しない。
(五) 弁天橋における謀議について
(イ) 弁天橋における動きについて
証人野崎照夫(四六)、同佐藤英秀(三一)、同川合良展(四六)、同小松豊(二三)、同田島徹夫(二七、二八)、同磯野之夫(三四)、同田中義雄(二一、二二)、同溝部通夫(二五)、同山本繁(二八、二九)、同石井勘一(二九、三〇)、同前川繁(三六)、同中川重行(四七)、同川東正光(四八)、同井尻盛行(四九)、同阿部初二(五〇)の各証言および被告人黒羽、同青木、同清野、同女屋、同山本、同長谷川、同飯島、同津金、同中西の当公判廷における各供述ならびに写一11ないし17、21、写八4、6、10、11、写一〇4、5、6、写一一3ないし8、写一四5ないし8、写一五5、6、7、9、10、11、写二〇8、10、11、20、21、22、写二七1、2、4、写二八3、写四四6、7、9、写六一7、8、10を総合すると、判示学生部隊は、午後二時すぎ社会党国会議員団等の出迎えを受けその拍手のうちに弁天橋西詰に到着した後、被告人女屋または同黒羽ら学生部隊指導者の指示、誘導により弁天橋上に進出し、その隊列を行進中の四列から八列ぐらいに増やして橋上に坐り込み、その後、数次にわたり漸次前進を重ねてその先頭は同橋東詰検問所前にまで進出して坐り込むにいたつたが、その間被告人黒羽、同女屋、同青木、同清野、同山本らを含む学生部隊指導者らは、おおむね坐り込んでいる学生部隊の先頭部分の前方列外に位置し、あるいは数名、あるいは十数名、時には各参加大学の自治会等の代表者をも加えて二十数名の者が集まり、円陣をつくるなどして会合し、何事かを話し合い、被告人飯島においては屡しばその会合に参加し、また、会合の途中で被告人長谷川のもとに赴き何事か話し合つた後会合の場に戻る等のことがあり、また被告人長谷川も直接被告人黒羽あるいはその他の学生部隊指導者と話し合いをしたり、被告人津金が自転車で弁天橋の状況を見に来たり、その他被告人中西および同安東もその姿を見せており、さらに被告人黒羽が日共東京都委員会の宣伝カー上から後記のごとき黒羽放送を行なつている等当日の弁天橋を中心とする学生部隊指導者および日共関係者の動きには、相互に相当緊密な関係のあつたことを窺わせるに十分なものがある。被告人長谷川は、当日の学生部隊の行動を単に視察しに来たものであると当公判廷で述べているが、措信しない。
検察官はこの点につき、学生デモ隊関係被告人等は被告人黒羽の指揮下にあつて日共関係被告人等の指揮指導によつて行動し得る組織体制を完成し、ハガチー車到着のさいは一挙にハガチー車を実力により阻止し得べき態勢が作為されたのであつて、この段階において右関係被告人等の本件犯行についての意図は十分にこれを推認することができるとしている。
しかしながら、日共および都自連においては、本件羽田動員については、国民会議の決定した線に従つて行動することにしていたことは判示のとおりであつて、六月一〇日以前において、羽田動員にさいし国民会議の決定した線を上廻るいわゆるはね上がり的行動に出ることを企図していたとは認められないのであり、また学生部隊は当日実質的に国民会議の指揮掌握下に行動していたことも前に認定したとおりである。
そしてまた、当時の弁天橋における前述のごとき学生部隊指導者および日共関係者の動きから、その間に緊密な関係の存在していたことは推知し得ても、これらのものの前記会合あるいは話し合いの内容については、直接これを聞知したとしても、その内容を明らかにし得る証人は一人もいないのであるから、このような外形的事実のみを捉えて直ちにこの段階において被告人黒羽ら学生部隊指導者および被告人長谷川ら日共関係者においてハガチー秘書らに対する本件犯行の意図ないし共謀があつたと認められるとすることは甚だ飛躍した考え方であつて採用できない。そこで問題は、当時の弁天橋における放送であり、その放送の内容よりして検察官主張のごとき意図の存在を認めることができるかという点にある。次にこの点について検討する。
(ロ) 弁天橋上の放送について
弁天橋上に待機していた学生部隊等の当日における行動ならびに意図を示すものと考えられる放送、ことにいわゆる黒羽放送を中心とするところの各証言は、その内容別にしてみると、官憲介入に関するもの、地下道云々に関するもの、およびいわゆる黒羽放送に関するものと、およそ三つに分類することができる。以下それぞれについて検討し、さらに相互の関連において判断したうえ、果してこれらの放送内容によつて事前共謀の存在を認定することができるかどうかを考えてみることとする。
1 官憲介入に関するもの
この点に関する証言は、
証人田中義雄(二一)の「午後二時五一分日本原水協の小型宣伝カーが『安保を阻止しましよう』などと放送したあとで、別の宣伝カーのそばでマイクを使つた学生が『現在の状況をお知らせします。ハガチーは一五時三〇分ころ到着します。間もなく官憲の弾圧があると思いますからスクラムを強く組みましよう』と放送した」旨の供述(速記録三一ないし三四丁)
証人田島徹夫(二七)の「二時五五分ころ清野が『ハガチーは午後三時三〇分ころ羽田に到着します』『午後三時ころから官憲の介入があるかも知れませんのですぐ立てるようにして下さい』と指示した」旨の供述(速記録一五丁)
証人佐藤英秀(三一)の「二時五七分ころ学生風の男二人が携帯スピーカーで『ハガチー氏は三時三〇分ころ到着する予定です』『官憲の介入があるかも知れませんから都立大、法政大の諸君頑張りましよう』と呼びかけた」旨の供述(速記録一〇丁)
証人磯野之夫(三四)の「午後三時ころ協議していた学生の一人が携帯マイクで『三時半ころハガチーが到着するから、その前に官憲の介入があるかも知れないから隊列を整えて下さい』と放送した」旨の供述(速記録二四丁)
証人野崎照夫(四六)の「写一五7の自転車を持つている男の右の二二才ぐらいの男が、三時一〇分ころ、東京外語大の旗のところに来て口で『今の会議の結果をお知らせする』といつて、『間もなく警官隊が出るだろう。われわれはこの橋をあくまで守ることに決まつた。それから右翼も出て来るだろう。これには抵抗するんだ。で抵抗しているときに警官隊が入つてくれば一応われわれは退く。退く時にばらばらに行動をとると逃げたようでみつともないからスクラムを組んで皆んなと一緒に行動をとつてくれ』と説明していた」旨の供述(速記録二一ないし二三丁)
等であつて、これらの各証言と押第二六五号の七の録音テープに同日午後二時五八分ころの録音として聴取できる録音テープの再生結果とを対比して考察すると、右放送は、各証人の表現に差異は認められるとしても、結局、ハガチー秘書が午後三時三〇分ころ到着の予定である旨を告げ、それに伴い官憲の介入が予想されるので立ち上がれる準備をしようとか「隊列を整えよう」などと呼びかけをしているにすぎないものであることが判る。もつとも、中にはスクラムを組むように呼びかけていたとする証言もあるが、これとても警察官に対し断固抵抗してでも弁天橋を阻止しようと訴えているものではなく、むしろかえつて警察官に抵抗することなくスクラムを組んで退避しようと呼びかけているものに過ぎない。
2 地下道云々に関するもの
この点に関する証言は、
証人田中義雄(二一)の「三時一七分ころ官憲の弾圧うんぬんの放送をしたのと同一の学生が、『ハガチーが一七番スポツトに降りて車でわれわれの前を通る予定です。班長の指示に従つて隊列を組んで下さい』と放送した」旨の供述(速記録三五、三六丁)
証人田島徹夫(二七)の「三時一二分ころ一人の学生が『ハガチーは午後三時三〇分ころ羽田空港に到着します』『地下道の中を通つてわれわれの前に出て来ます』『だからすぐ行動をとれるようにして下さい』と肩に担ぐのより大きいメガホンで言つていた」旨の供述(速記録一九丁)
証人佐藤英秀(三一)の「三時一五、六分ころやはり携帯スピーカーで『ハガチー氏はその地下道を通つてわれわれの前に来る。われわれとしてはただちに立ちあがられるようにして下さい』といつた」旨の供述(速記録一一丁)
証人磯野之夫(三四)の「そのご学生の一人が携帯マイクで『ハガチーは一七番スポツトに到着して間もなく地下道を通つてわれわれのいるこの弁天橋に来るからいつでも行動できるように準備してくれ』といつていた」「放送したのは三時一六、七分ころである」旨の供述(速記録二五丁、八二丁)
証人野崎照夫(四六)の「三時二〇分ころハガチー氏といつて氏をつけていつた者が宣伝カーの上から『いま我々の隊列の前を労組員が空港ロビーにつめるために行進している』『ハガチー氏がヘリコプターで到着した。間もなくガードを通つてここへ来る。われわれはあくまでもこの橋を固めて、ここでハガチー氏を阻止する。われわれの後方に約二〇〇名位の自民党の学生が来ておる。それを空港の方に入れないように阻止する。その二つが基本的な目標である』と放送した」旨の供述(速記録二七、二八丁)
証人川合良展(四六)の「三時二五分ころ黒羽が小型宣伝カーの上からマイクで『後方に自民党の人びと二〇〇名位いる。あくまで阻止するんだ』『ハガチー氏が到着します。これから労組の人びとがロビーにはいります。ハガチー氏は一七番ゲートに到着し、地下道を通つて来ます。我々はあくまでここに頑張ることを基本的な任務とします』とアジ演説をした」旨の供述(速記録八丁)
等である。ところで右各証人の供述をみると、「地下道云々」に関する証言部分に相当重要な差異が認められる。すなわち、前記田中、田島、佐藤および磯野証言によると、要するに携帯マイクで放送された事項は、「ハガチー秘書が地下道を通つて来るからそのときはすぐ行動をとれるように準備してくれ」という趣旨以上に出ないものであつて、ハガチー秘書を実力で阻止して捕捉するというような発言は何ら含まれておらない。それに反して前記野崎、川合証言によると、「ハガチー秘書がガード(もしくは地下道)を通つて来る。われわれはここでハガチー氏を阻止する(もしくは、ここで頑張る)」というのであつて、その放送はいわゆる実力阻止を訴えたという趣旨である。検察官が事前共謀の証拠として重要視しているのは、もちろん後者であるが、この野崎、川合両証言に共通していることは、まず右放送が宣伝カーの上からなされたということ。放送者がいずれも被告人黒羽であるという趣旨に述べていること(野崎証言は「黒羽」と具体的に述べておらないが、証言の前後の趣旨からそのように理解される。)また、放送時間について、野崎証言は午後三時二〇分ころ、川合証言は午後三時二五分ころだとして、ともに三時二〇分すぎであるとしていること。他方放送内容について、「労組員がロビーに向う」ということと「地下道(もしくはガード)を通つて」という二つの事項が同一の機会に放送されたとする点である。そこで、右両証人の供述と前記証人佐藤英秀(三一)、同田島徹夫(二七)、同磯野之夫(三四)、同加藤昭雄(四九)の各証言ならびに写一19(オースチン車上の被告人黒羽)、押第二六五号の七の録音テープの再生結果等と対比して判断すると、まず、右野崎、川合証言で、同日午後三時二〇分すぎ宣伝カーの上から被告人黒羽(野崎証言では、「ハガチー氏」と呼んだ学生)が放送したといえば、時間的関係からすると、右録音テープに収録されている三時二四分ころの「黒羽放送」に該当すると考えられ、また、右野崎、川合証言は「労組員がロビーに向う」旨を放送したとしているから放送の内容からしても、まさに右録音に収められた「黒羽放送」に一部合致し、したがつてこれとは別個の、右録音に収録されていない、別の機会の「黒羽放送」があつたとして証言されているものでないことは明らかである。しかるに、右三時二四分ころの放送を録音したいわゆる「黒羽放送」には、「地下道(もしくはガード)を通つて来る」などという発言は全く存在しない。ところが、この点、前記佐藤、田島、磯野証言によると、「地下道を通つて」うんぬんという放送のなされたのは、午後三時二〇分以前のことであり、しかも被告人黒羽とは別人の学生が、宣伝カーの上からではなく、携帯メガホンで放送したというのである。とすると、これらの証言と前記録音テープの再生結果に徴し、前記野崎、川合証言は、あきらかに、三時二〇分以前になされた被告人黒羽とは別人の放送とそれ以後になされたいわゆる「黒羽放送」とを混同し、被告人黒羽が放送しない「地下道(もしくはガード)を通つて」うんぬんとの放送内容を被告人黒羽がいわゆる「黒羽放送」において放送したもののごとく証言しているのであつて、そこに大きな記憶違いをしていることが明らかである。したがつて、右野崎、川合証言は、にわかに措信することができないと同時に、その余の各証人がそれぞれ証言する地下道云々の放送は前述のような趣旨のものであるから、結局この地下道云々に関する学生放送には、何ら学生部隊の実力阻止の意図を窺うに足るものがないといわねばならない。
3 黒羽放送
ここに「黒羽放送」というのは、証人加藤昭雄(四九)の証言と押第二六五号の七の録音テープの再生結果により認められる当日の午後三時二四分ころ被告人黒羽が行なつた放送内容のことである。被告人黒羽が日共東京都委員会の宣伝カーの上から右の放送をしたことに関する証人は証人田中義雄ら約一〇名にのぼつているが、この点については弁天橋において右被告人黒羽の放送を録音した前記証人加藤昭雄(四九)の証言とその録音にかかるテープの複製テープである前記押第二六五号の七の録音テープによつて端的に右黒羽放送の内容を把握するとその内容は、これを要するに、判示のごとくハガチー秘書が到着したことおよび稲荷橋と弁天橋はスクラムを組んでしつかり固められてはい出るすきまもないゆえヘリコプターで逃げ出すよりほかに手段はない旨の状況判断を伝達するとともに、空港ロビーが自民党の人びとによつて占められておるため、稲荷橋の労働者がロビーに向つているが、学生部隊は今暫く弁天橋に待機されたい旨を伝えたに過ぎないものであることが知られる。もつともこの後の部分については録音テープの再生の結果では聴取不能の部分があつてその内容が稍不明確であるところ、この点について、証人長瀬晃(二四)は「稲荷橋はさらに労組員で固められておるので、われわれ全学連は弁天橋を守ろう」という意味の放送をしたと述べ(速記録一八、一九丁)、証人溝部通夫(二五)は「われわれはここで自民党の連中が来るのを阻止する。」と放送したと述べ(速記録一七丁)、証人中川重行(四七)は「この橋のうしろに自民党の学生が来ているからこれをロビーの自民党に応援させないように、それを最後まで阻止して下さい」といつていたと述べている(速記録一一丁)。そして当時の黒羽放送を録音した前記証人は「われわれはここでもう少し待機してくれ」と演説したと述べているのである(速記録一二、一三丁)。ところがこれに対し証人田島徹夫(二七)は「稲荷橋の方は労組がガツチリ守りを固めている。だから弁天橋はわれわれの手で頑張ろう。一歩もハガチー氏がここから逃げ出すのをくいとめよう。」といつたと述べ(速記録二八、二九丁)、証人阿部初二(五〇)は「われわれ学生はこの橋と向うの橋を守つてアイクに関する一切のものを通さないようにしようじやないか」との意味のことを放送したと述べ(速記録一一丁)、また証人野崎照夫、同川合良展はいずれも弁天橋でハガチー氏を阻止する趣旨のことを放送したとしていることは前段に摘記したとおりである。
ところで右証人中、野崎および阿部の両証人はいずれも弁天橋西詰で右黒羽放送を聞いたと述べているのであるが、その聞いたとする放送内容には前記のごとく大きな相違があることが明らかである。もつとも、野崎証人のこの点に関する証言には大きな記憶違いがあつて措信し得ないものであることは前段において説明したとおりであり、そしてまた阿部証人の証言も「われわれ学生でこの橋(弁天橋のこと)と向うの橋(稲荷橋のこと)を守る」などと当時の状況から考えて到底あり得ないことを放送したとしているものであるから同証言も措信し難い。次に田島証人は黒羽放送を弁天橋東詰で聞いたとしているが、当時その放送を同じく弁天橋東詰で聞いたという加藤証人の証言はこれと著しく異なつており、かつ、右田島証人は、黒羽放送に関する証言において、黒羽放送の前段の部分の放送についてはこれを聞いた旨の供述をしていないので「一歩もハガチー氏がここから逃げ出すのをくいとめよう」と放送していたという部分は、録音内容にある「稲荷橋と弁天橋はしつかりとスクラムで固められておりますので、彼ははい出すすきまがありません」との放送部分を誤つて記憶しているのではないかとの疑問も生じ、にわかには措信し難く、川合証人の証言もまた大きな記憶違いがあつて到底措信できるものでないことは前段において説示したとおりである。
このように右野崎、阿部、田島、川合の各証言はいずれもこれを採用することができないものであるところ、その余の前掲各証人の証言中には自民党の学生が弁天橋を渡つて空港ロビーに行くことを阻止しようと呼びかけていたとするものはあつても、ハガチー秘書の車を阻止しようとの放送があつたとするものは一つもないので、結局このような実力阻止を呼びかける趣旨のものが黒羽放送中にあつたと認めるべき証拠はないことに帰する。
とすれば、弁天橋における前記各放送の内容を検討しても、検察官の論ずるごときハガチー秘書らに対する本件犯行の意図の存在は遂にこれを認めることはできないといわねばならない。
(六) 学生派遣部隊の反転について
被告人黒羽、同山本が当日午後三時四〇分ころ弁天橋上から約三〇〇名の学生派遣部隊を引率してターミナルビルに向い、途中大曲付近でハガチー車一行とすれ違い、そのまま反転して弁天橋の方向に馳け戻つた事実は、すでに判示認定のとおりである。
検察官は、高速で疾走するハガチー車を徒歩で追跡したこと自体によつて当日弁天橋にいた学生部隊員の間にハガチー車阻止の事前の共謀が存在していたことを推認することができるとしている。
しかしながら、証人渡部雅量(二〇、二一)、同溝部通夫(二五)、同前川繁(三六)、同鹿久保清(三八)、同常山貫治(四一)、同大橋智(四三)、同入佐俊民(五〇)、同兼田富太郎(八八)、同林弘(八二)、同安達宏治(八三)、同手島和史(八五)、同楠本晟(八二)、同中路雅弘(八八)の各証言ならびに写一四10、写二四6ないし10、写三一8ないし11、写五一20、写五八1、写六〇9ないし11を総合すると疾走するハガチー車とオペレーシヨンセンターの付近ですれ違つたうえ、その後を追跡して反転して行つたものは、前記学生派遣部隊だけではなく、東京共斗部隊に属する全日自労等の判示第二梯団のデモ隊員をはじめ、当時学生部隊の動向を視察していた警察官は勿論としてそのほかの警察官の中にもいたのである。その警察官は、「オペレーシヨンセンターの付近でハガチー車らしいのがフルスピードで弁天橋に走つて行き、そのあとに報道車が四、五台続いているので、これがハガチー車だと思つて反転した」旨述べているのであり(証人入佐俊民速記録四、五丁参照)、他方その後、フインガーにいたデモ隊も弁天橋方向に向つて走つていつたことが窺われる。ところで、これら弁天橋方面にかけて行つたデモ隊の中には、すでに事件の発生を知つて馳けつけたものもあるから、そのようなものは別としても、前述のごとき供述をしている警察官は勿論のこと被告人黒羽らと全く同一の機会に反転して行つた前記全日自労等の第二梯団部隊等も、いわゆる実力阻止の意図がなかつたとされているのに何故疾走するハガチー車を追跡したのか、検察官の論法をもつてすれば説明のつかない現象であろう。
前掲各証拠からも明らかなとおり、右被告人黒羽らの学生派遣部隊、全日自労等の部隊は、判示認定のごとき「ハガチーは、ヘリコプターで行くであろう」との専らの情報が流布されていた時期に空港ロビーへ向つて出発して行つたのであるが、オペレーシヨンセンター付近において突然ハガチー車を中心とする車の列とすれ違つたために、一時に喚声があがり興奮と混乱した状況のうちに、口ぐちに「ハガチーだ、ハガチーだ」と叫びながら一斉にかけ戻つたのである。これら反転した者の中に、当時の弁天橋およびその付近におけるデモ隊の状況からして、あるいは、ハガチー車の進行が、阻止されるとまでは考えなかつたとしても、困難になるだろうと予想したものが全然いなかつたとはいい切れないものがあると同時に、ハガチー車の突然の出現に興奮し、確たる考えもなく、反射的に当日の抗議行動の対象たるハガチー秘書の後を追う衝動にかられて反転し、または群集心理的行動として反転して行つたものがないともいえない。
これを要するに、被告人黒羽ら学生派遣部隊の反転行為をとらえて当日の学生部隊の間にいわゆる事前共謀の存在していた証左であるときめてしまうことは甚だ独断的な見解であるといわねばならない。
以上(一)ないし(六)においてそれぞれ詳細に説明したところによつて明白なごとく、日共および都自連関係被告人らの間に、検察官のいわゆる「事前共謀」の成立を認むるに足る証拠は、結局存在しないといわねばならない。
三 被告人女屋の行動について
公訴事実によると、被告人女屋はハガチー車の周辺でデモ隊に対し実力行使の指揮をしたとなつているので、按ずるに、証人田島徹夫(二八)は、ハガチー車前面に坐りこんでいる学生に対する警察官の実力行使は同日午後四時七分ころに始まつたが、そのころ被告人女屋は、ハガチー車の右前照灯のあたりに密着するようにして都立大の手島の南側に同人と並んで前面の学生デモ隊の方を向いて立つていたが、警察官の引抜きが始まるや、「引抜きが始まつたからスクラムをガツチリ組め」と握り拳を胸のところにあてスクラムを組むかつこうをした。服装は薄茶か焦茶のオープンシヤツで腕まくりをしていた。その後同人は、その立つているところまで進んで来た警察官に排除されたが、それは四時九分か一〇分ころである旨の供述をしている(速記録六五ないし七〇丁参照)。しかしながら、証人関丘(三〇)の証言によつてハガチー車前面における警察官の実力行使開始直前の写真であることの明らかな写五四3ないし22および実力行使開始後ハガチー車に到達する直前のものである同23ないし39の各写真の中には被告人女屋の姿を見付けることができないところ、却つて、写五七1ないし7、写五九1、2および写六一46、51、68、ならびに証人末松実雄(一七)、同高山秀俊(三八)、同塩原宗人(五二)、同松井一夫(八四)および同倉和男(八四)の各証言を総合すると、第五機動隊がハガチー秘書ら救援の出動命令を受け弁天橋西詰にその部隊を集結したのが同日午後三時五八分ころであるが、この時被告人女屋は、弁天橋西詰において右警察官と相対峙する学生デモ隊の前面にあつて、同橋のらんかん西南端にあるコンクリート柱に上がり、学生デモ隊に対し警察官の空港進出を阻止すべきことを指示したりしていたが、午後四時七分ころ警察官が実力行使をしたさい、最初に排除せられたことが認められる。しかるに、前記田島の証言によると、被告人女屋は右認定のとおり弁天橋西詰において第五機動隊の入港を阻止していたと同じ時刻ころにハガチー車の前面に居つたことになり、同証言は到底信用することができない。
このように、被告人女屋は遅くとも同日午後三時五八分ころから四時七分すぎころまでは弁天橋西詰におり、ハガチー車周辺にいなかつたことを明らかである。
そこで、問題は、同被告人が、弁天橋西詰にいたことの明白な午後三時五八分ころまでの間に、ハガチーの周辺にかけつけ、その包囲陣に参加したかどうかという点である。
同被告人が、被告人黒羽らに引率された学生部隊がロビーに向け弁天橋を出発する前ころ同橋の東詰に出ていたことは証人前川繁(三六)の証言および写八11、写四四6ないし12によつて明らかである。証人山本繁(二八)は被告人黒羽とならんで被告人女屋が学生部隊を引率して行つたと証言するが(速記録一〇丁)、この点はにわかに措信し難い。
検察官は、写二五13および14に、被告人女屋がハガチー車の左前方にいるとしている。そしてその指摘する人物は、写二五13では「上野高校」の旗の横で両手を左右に拡げ坐りこみを指示しているごとく感ぜられる後ろ向きで横顔が見え、写二五14では右「上野高校」の旗の下にいる人物と思料されるのであるが、この人物はまた右写二五13、14と殆んど同時刻ころの写真と認められる写一五18にも写つていることが知られる。(写真向つて左方、格子縞のシヤツの人物と鉢巻をしている人物の中間右寄りで英文プラカードの前方に写つている人物)。そしてこの人物は、写一〇14および写一一10に写つている被告人女屋とその服装、容貌、体格等全く似ており、被告人女屋自身ではないかと思わせられるのであるが、右写二五13、14および写一五18に写つている前記人物と写一〇14および写一一10に写つている被告人女屋とを些細に対比して観察すると、写一〇14および写一一10に写つている同被告人の横顔では、その「もみあげ」がきれいに剃りあげられているが、写二五13、14、および写一五18の前記人物は、それがのびており、剃りあげられていないことが明らかに認められるので、右人物は、被告人女屋の当公判廷における供述のとおり、同被告人とは別の人物であると認めるを相当とする。そして写二五13、14および写一五18には右の人物を除いて被告人女屋と認められるごとき人物を発見することができない。
そしてまた、その他の全証拠(証人の証言および写真を含めて)によるも被告人女屋が、前記の時期および当日午後四時七分以後において、ハガチー車の周辺にいてハガチー車の包囲陣に参加していたことを認めることができない。
以上の理由により、当裁判所は、証拠標目欄掲記の該当証拠によつて、判示のごとき幇助犯に該当する事実のみを認定したものである。
第五訴因変更の要否について
一 被告人阿部、同岡部、同石井、同武田、同馬場、同舟生、同渡辺に対する公訴事実について
(一) 暴力行為等処罰に関する法律違反中脅迫の訴因について
右被告人らに対する本件公訴事実によると、同被告人らは、外多数の者と共謀してハガチー車を取り囲み、ゴーホームハガチー、ゴーホームヤンキーと怒号しながら車体を激しくゆさぶり、或は車体に乗つて踏みつけ、旗竿、プラカード等で車体を連打またはこれに投石するなどして、同日午後四時五〇分ころまでハガチー秘書らに対し、暴行脅迫を加えると共にその乗用車の窓ガラス、尾灯その他を損壊したとして、脅迫行為をもその訴因に取りあげている。ところで、被告人阿部、同岡部、同石井、同武田、同馬場、同舟生および同渡辺を含むハガチー車包囲のデモ隊員らが、共謀して、ハガチーゴーホームなどと叫び、喚声をあげながらハガチー車に向けて投石し、旗、プラカード等で車体を叩き、あるいは車体を持ちあげるようにして大きくゆさぶる等の行動に出たことは判示のとおりである。そして証人愛甲義衛(一三、一四)は、当時の模様につき車体が左側から大きく持ち上げられるようにして傾いたので、自分はこれではひつくり返えるのではないかと思い、ハンドルにしがみついた。車がひつくり返えるとガソリンがこぼれ、火をつけられたらどうして車から出ようかと考えたり、またバツテリーがスパークしてこぼれたガソリンに引火して発火したりすることもあるので、それを心配したと証言している。(速記録第一三回公判分五九丁、第一四回公判分五五、五六丁参照)。しかしながら当時ハガチー車を運転していた右愛甲義衛がこのような心配をしたとしても、右被告人らを含むデモ隊員においてハガチー秘書らの生命、身体、自由等に危害を加うべきことを告知する意図をもつて前記行動に出たと認むべき明確な証拠は存在しない。却つて、判示認定にかかる当時の諸般の状況から判断すると、右被告人らデモ隊員の行動は、本件羽田動員の目的であるアイゼンハワー大統領訪日反対の意思をハガチー秘書に対して表明しようとするその抗議行動そのものの端的にして爆発的なあらわれであつて、ハガチー秘書らに対する直接的な有形力の行使たる暴行であり、その搭乗車に対する損壊行為であると認むるを相当とする。
右の理由により、当裁判所は、右公訴事実中暴力行為等処罰に関する法律違反の所為中脅迫の点はこれを認定しないのであるが、同法第一条第一項の規定は、刑法上における暴行、脅迫、器物損壊の各罪の刑の単なる加重規定ではなく、集団的暴行・脅迫・毀棄を一罪として処罰する趣旨のものと解するがゆえに、右脅迫の点については、特にこれを訴因変更の要否ないし一部無罪の問題として取りあげる余地は全く存しない。
(二) 併合罪の認定について
右被告人らに対する本件公訴事実中、暴力行為等処罰に関する法律違反と不法監禁、威力業務妨害は観念的競合の関係に立つものとしての起訴であるが、判示のとおり、まず右被告人らが目前に停車したハガチー車に対し暴力行為等処罰に関する法律違反の犯行をした後、被告人松田らに制止されたため、その後同被告人らの指揮に従つて、さらにハガチー車に対する抗議の意思表示をするため、その周辺に坐りこんだりしてこれを包囲するにいたつたものである。したがつて、右暴力行為等処罰に関する法律違反とハガチー秘書らの不法監禁ならびに愛甲義衛に対する威力業務妨害とは判示第二、二、(一)の(イ)および(ロ)認定のとおり、観念的競合の関係ではなく、併合罪の関係に立つものといわねばならない。しかしながら右訴因と認定事実とは、基本的事実関係は全く同一であつて、公訴事実の同一性を失わず、ただこれを科刑上の一罪とみるか、否かの罪数に関する法律評価の差異にすぎず、右被告人らの防禦権の行使に何ら不意打ちの不利益を与えてないから、訴因変更の手続を経ることなく、判示のとおり右公訴事実の訴因につき、これを併合罪と認定することとした。(昭和二七年(あ)五〇四五号昭和二九年三月二日最高裁第三小法廷判決、昭和三〇年(あ)三四九九号昭和三二年一〇月八日最高裁第三小法廷判決参照)。
二 被告人らの共謀関係について(弁護人の訴因の特定を害するとの主張について)
弁護人は、被告人らに対する本件公訴事実は起訴状の記載および検察官の釈明によつて特定されており、さらにまたその文言「ほか多数の者と共謀の上」の「共謀」についても同時既遂論を中核とする釈明によつて訴因が特定されている。この特定された訴因について、事前共謀ならびに同時既遂論が否定されても、時間的にのちにハガチー車周辺に赴いた時点で実行の着手がありとして共謀の成立を認めるとするならば、それは訴因の特定を害し、被告人らの防禦権を侵すものであつて許されないと主張する。ところで、当裁判所は、まさに右弁護人の論ずるごとく、検察官のいわゆる「事前共謀」の成立を否定し、かつハガチー秘書らに対する不法監禁および愛甲義衛に対する威力業務妨害についての共謀成立の時点を被告人松田、同中村らのハガチー車天蓋上からの指揮に周辺のデモ隊員が応じた前後にありとして各自順次に共謀が成立したとし、また、その後ハガチー車の停止の現場に到着した各被告人らについては、その時点ころに順次前記共謀に加わつたと認定していることは判示のとおりである。しかしながら、本件公訴事実は、検察官の釈明するところによると、全学連反主流派の被告人青木、同女屋、同黒羽、同清野、同山本らと被告人長谷川、同中西、同津金、同飯島、同安東らとの間に本件犯行につき羽田空港内外で最終的にいわゆる事前共謀が成立していたところ、前記被告人および被告人中川を除くその余の被告人は、ハガチー搭乗車の発見と同時にその場にいた一、〇〇〇名余と共同してハガチー秘書らの行動を妨害しようとの決意を生じ、右多数者と共に喚声をあげて同自動車をめがけて殺到し、これを停車させ、被告人中川は、そのころ右状況を目撃して互に意思相通じて同種犯行を行なう決意を生じてこれに加わり、前記事前共謀者はハガチー車停車のときは空港内の同所近辺にいたが、事件発生を知るや、右被告人阿部らの一団とともに互に意思相通じハガチー秘書らの行動を妨害することによつて抗議の意思を実現すべく外数千名の者と現場にかけつけ、相呼応してハガチー車の包囲態勢をつくりあげたとしているのである。検察官は、このように、そのいわゆる事前共謀者については、数千名の者と現場にかけつけてハガチー車包囲態勢をつくりあげたとして、その実行行為に加担した時点をも特に付加して明確にしているのであるから、この事前共謀に関与したとされている被告人らにつき、事前共謀の成立を認めず、右実行行為に加担した時点において初めて順次共謀の成立を認めたとて、基本的事実関係にはなんらの差異はなく、公訴事実の同一性を失なうものではない。そしてまた本件においては、事前共謀の成否は特に重要な争点とされ、ハガチー車の停止原因に関連して被告人らの共謀の有無について十分な審理がなされているのであるから、事前共謀の成立を否定し、別段訴因変更の手続を経ることなく、判示のごとく順次共謀の成立を認めても何ら訴因の特定を害さず、被告人らの防禦権の行使に不利益を及ぼしてもいない。事前共謀に関係のない被告人中川に対してもこの理は、また同様である。弁護人のこの点に関する主張は理由がない。
三 被告人女屋の公訴事実について
被告人女屋に対する本件公訴事実中、不法監禁および威力業務妨害の訴因は、いずれも被告人青木らとの共同正犯としての起訴である。しかし、これについても、前に詳述したごとく、被告人女屋と同青木らとの間には事前共謀の事実が認められないとともに、被告人女屋が、ハガチー車の停止当時その現場にいた証明がないので、現場共謀の成立もこれを認めることができない。しかしながら、当裁判所は、証拠により、同被告人に対し判示のごとき幇助の事実を認定することはできるとして、これを認定したのであるが、本件のように、被告人女屋が、当初から共謀の事実を否認し、外形上幇助の事実を主張している場合には、共同正犯の訴因を幇助と認定しても、公訴事実の同一性を失わず、しかも同被告人に何ら防禦上の実質的不利益を与えないから、特に訴因変更の手続を経ないで判示のとおり認定した。(昭和二六年(あ)二九八七号昭和二九年一月二一日最高裁第一小法廷判決、昭和二六年(あ)二五二六号昭和二九年一月二八日最高裁第一小法廷判決参照)。
第六弁護人の主張に対する判断
一 正当行為
(一) 弁護人の主張
この点に関する弁護人の主張の要旨は、本件ハガチー秘書に対する被告人らを含むデモ隊の行動は、憲法第二一条、第二八条によつて保障された集団示威運動であつて、それ自体正当であり、刑法第三五条により違法性を阻却する。詳言すれば、およそ国民がその掲げる政治的・経済的あるいは社会的主張を貫徹する目的を以てなされる言動は、さまざまの形態をとることはあつても、その中軸となるものは、国民の集団的示威運動である。今日の社会制度のもとにおいては、言論の自由のための諸機関は、社会的大資本の経営するところであつて、国民一般は、それらの経営に被用者として雇用されることはあつても、その経営の運用を左右することはできない。したがつて、国民一般の主張を明らかにする唯一の形態は、集団示威運動である。憲法第二一条あるいは同法第二八条は、この意味における集団示威運動の権利を国民に保障した。六月一〇日当日、羽田空港内外における労働者、学生、政党員の集合は、アイゼンハワー大統領の訪日に反対し、安保条約改訂に反対する言論の自由の発揚を目的とし、またその目的に限つていた。この目的の正当性は疑をいれないものであるが、これを好ましくないとして、政治的に反対の見解をたてることは、それ自体として許されるとしても、それ故に本件集団示威運動を違法視することは許されない。しかも、いわゆる安保条約とその改訂をみると、それらは、その内容において明らかに日本国憲法の平和の条項に反し、その手続において民主主義の原則に背反しているとき、憲法の基準において、本件集団示威運動を組織する被告人らの側に、より高い正当性を付与されることはあつても、これを非難することはできないから被告人らの行為は、実質的に違法性を阻却する社会的に正当な行為であるというのである。
(二) 当裁判所の判断
安保条約は、明らかに平和主義の原則を貫らぬく日本国憲法に違反するものであるから、その改定は日本の将来に対し極めて危険であるとし、アイゼンハワー大統領の訪日に反対して多数人が集団示威行動をとることは、ただそのこと自体を抽象的に考えるならば、まさに日本国憲法第二一条によつて保障された言論、表現の自由の範囲内に属するものといわねばならない。しかしながら、憲法に保障された言論、表現の自由といえども、絶対無制限のものではなく、公共の福祉に反することを許されないことは、すでに最高裁判所のいくたの判例の示すところであり、ことに集団示威行動の場合には、事柄の性質上、一般に多数人による表現である点において、ある程度の物理的潜在力を内包しているものであり、したがつて手段と方法のいかんによつては、他人の基本的人権との衝突の可能性を内蔵しているから、かかる一般公共の福祉の観点から多かれ、少なかれ、ある範囲の制約をまぬがれないというべきである。(昭和二八年(あ)一七一三号昭和三二年三月一三日最高裁大法廷判決、昭和三五年(あ)一一二号同年七月二〇日最高裁大法廷判決参照)。本件において被告人らが羽田空港に集合し、アイゼンハワー大統領の訪日に反対し、安保改定に反対する言論の自由を発揚せんとする目的そのものは、法律上何等違法視すべき筋合のものではない。しかし、目的の正当性は、手段の正当性をつねに保障するとはかぎらない。被告人阿部らにおいては、判示第二、二、(一)、(イ)において認定したごとく、ハガチー秘書に対しアイゼンハワー大統領訪日反対の意思を表示するためとはいえ、ハガチー秘書およびその搭乗車等に対し暴行、器物損壊に及ぶがごときことは、明らかに言論、表現の自由の限界を越えたものであり、またその後、被告人らが、判示のように、数千名のデモ隊の威力を背景にしたうえ、その搭乗車を取り囲んでその発進を阻止し、来日直後のハガチー秘書らを車中に閉ぢ込めたまま「ハガチーゴーホーム」「ヤンキーゴーホーム」などのシュプレヒコールを一斉に高唱して抗議行動を行うがごときは、たとえその目的において正当なものがあろうとも、その手段、態様において、憲法第二一条の保障を受けるべき正当性の限界を著しく越えたものであるといわねばならない。そしてまた、被告人らの本件行動は、集団示威行動ではあつても、アイゼンハワー大統領の訪日反対のための抗議行動であつて、使用者対被使用者の関係に立つ場合のものではないから、それ自体憲法第二八条の保障を受ける勤労者のいわゆる団体行動権の行使には該当しないことはいうまでもない。被告人らの本件行為は、社会通念上許された範囲を逸脱するものであつて、正当な行為とはいえない。弁護人の主張は理由がない。
二 緊急避難
(一) 弁護人の主張
この点に関する弁護人の主張は、これを要するに、本件における被告人らの坐り込みの指示またはそれに基く坐り込みは、刑法第三七条の緊急避難行為に該当する。すなわち、被告人松田、同中村、同清野らデモ隊の指揮者が、ハガチー車上に登つて坐り込みの指揮をしたのは、その場の混乱を制止し、統制の回復をはかるためにした行為であつて、それは結局混乱にもとづくハガチー秘書らに対する現在の危難を避けるうえにおいて緊急やむを得ずなしたものである。しかも、右被告人らが車上に登つたこと、ならびにそこでの坐り込みの指示等によりハガチー車の運行が停止された等の結果は、同秘書らの危難に比らべて法益の権衡を失していないから右被告人らの前記行為は違法性を阻却し罪とならないというのである。
(二) 当裁判所の判断
ハガチー車が停止するにいたつた状況ならびにその周辺において、被告人松田、同中村、同中西、同小林、同山下らが当初被告人阿部らのハガチー秘書およびその搭乗車に対する暴行、器物損壊の犯行を制止していた状況は、判示認定のとおりであるが、その後被告人松田、同中村、ついで被告人清野らがハガチー車上に登り、またその余の前記被告人がその車の周辺でそれぞれ坐り込み等の指揮をし、またそれに従つて周辺のデモ隊が坐り込んだ行為は、いずれも、殺到する群集によるハガチー秘書に及ぼすことあるべき不測の危害を防止するためよりも、むしろ、目前の同秘書に対するアイゼンハワー大統領の訪日反対のための抗議行動としてなされたものであるから、被告人らの本件行為は、いずれもその目的の点において緊急避難の基本要件を欠いているといわねばならない。したがつて、この点に関する弁護人の主張はすでにこの点において理由がなく、採用の限りでない。
三 期待可能性
(一) 弁護人の主張
この点に関する弁護人の主張は、本件における混乱発生の原因は、まず第一に日本の警察官すら予想しなかつた状況下にハガチー車が突然疾走して来たこと、第二に、現場の地形と相互に行き違う先行車と対向車が原因となつてハガチー車が停止したこと、第三に、ハガチー一行の車列の左側にあつた神奈川部隊の隊列は後方から押しつけられ、ハガチー一行の車列の前方にあつた学生部隊はその位置に自然と集合する心理状態となつたことなどである。このような条件のもとでは、何びとも、混乱の制止と混乱からの離脱のためには坐り込み以外に適法な行為を期待することはできない。被告人らの本件坐り込み等の行動はいわゆる期待可能性の理論からして法律上責任のない行為であるというのである。
(二) 当裁判所の判断
しかしながら、当裁判所は、被告人らの判示坐り込み行為はハガチー秘書に対する抗議行動として行なわれたものであると認定しているのであつて、このような意図に基づいて行なわれた行為については、期待可能性がないなどといい得べき筋合いのものではない。弁護人の主張は理由がない。
第七前科等
一 累犯前科
被告人安東は、昭和二九年三月一二日東京高等裁判所において公務執行妨害、住居侵入、傷害、暴行の各罪により懲役六月に処せられ、昭和三二年五月一四日その執行を受け終つていたものであつて、このことは同被告人に対する前科調書の記載により明らかである。
二 確定裁判を経た罪
被告人馬場は、昭和三八年六月四日東京地方裁判所八王子支部において詐欺、業務上横領の各罪により懲役一〇月、三年間執行猶予の裁判を受け、同月一九日確定し、ついで昭和三九年一月二九日武蔵野簡易裁判所において窃盗罪により懲役一〇月、三年間執行猶予、保護観察付の裁判を受け、同年二月一三日確定したものであつて、このことは、同被告人に対する検察事務官作成の前科調書二通により明らかである。
第八法律の適用
被告人らの判示各所為中、被告人安東の判示第二、二、(四)(以下単に判示(四)または判示(一)と表示し、他はこれに準ずる。)の暴力行為等処罰に関する法律違反の点は、同法律第一条第一項、罰金等臨時措置法第三条第一項、刑法第六〇条に、威力業務妨害の点は、刑法第二三四条、第二三三条、罰金等臨時措置法第三条第一項、刑法第六〇条に、被告人阿部、同岡部、同石井、同武田、同馬場、同舟生、同渡辺の判示(一)、(イ)の点は暴力行為等処罰に関する法律第一条第一項、罰金等臨時措置法第三条第一項、刑法第六〇条に、被告人青木、同阿部、同安東、同飯島、同岡部、同石井、同黒羽、同小林、同清野、同武田、同津金、同中川、同中西、同中村、同長谷川、同馬場、同舟生、同松田、同山下、同山本、同渡辺の判示(一)、(ロ)の各不法監禁の点は刑法第二二〇条第一項、第六〇条に、各威力業務妨害の点は同法第二三四条、第二三三条、罰金等臨時措置法第三条第一項、刑法第六〇条に、被告人青木、同中川、同山本の判示(二)の公務執行妨害の点は同法第九五条第一項、第六〇条に、被告人青木の同(二)の各傷害の点は同法第二〇四条、罰金等臨時措置法第三条第一項、第二条、刑法第六〇条に、被告人女屋の判示三の各不法監禁幇助の点は同法第二二〇条第一項、第六二条第一項に、威力業務妨害幇助の点は同法第二三四条、第二三三条、罰金等臨時措置法第三条第一項、刑法第六二条第一項にそれぞれ該当し、被告人安東の判示(四)の暴力行為等処罰に関する法律違反と威力業務妨害、被告人青木、同阿部、同安東、同飯島、同岡部、同石井、同黒羽、同小林、同清野、同武田、同津金、同中川、同中西、同中村、同長谷川、同馬場、同舟生、同松田、同山下、同山本、同渡辺の判示(一)、(ロ)の各不法監禁およびこれと威力業務妨害、被告人青木の判示(二)の公務執行妨害と各傷害、被告人女屋の判示(三)の各不法監禁幇助およびこれと威力業務妨害幇助は、それぞれ一個の行為にして数個の罪名に触れる場合であるから各刑法第五四条第一項前段第一〇条により、被告人安東の右判示(四)については、運転手相原明に対する威力業務妨害罪の刑で、被告人女屋を除くその余の各被告人の判示(一)、(ロ)については、結局最も重いと認められるハガチー秘書に対する不法監禁罪の刑で、被告人青木の右判示(二)については、最も重い警察官国分利正に対する傷害罪の刑で、被告人女屋の右判示(三)については、最も重いと認められるハガチー秘書に対する不法監禁幇助罪の刑でそれぞれ処断することとし、被告人安東の判示(四)の威力業務妨害、被告人阿部、同岡部、同石井、同武田、同馬場、同舟生、同渡辺の各判示(一)、(イ)の暴力行為等処罰に関する法律違反、被告人青木の判示(二)の傷害、被告人中川、同山本の判示(二)の公務執行妨害の各罪につき、いずれも所定刑中懲役刑を選択し、被告人安東につき前示前科があるから刑法第五六条第一項、第五七条により判示(一)の不法監禁、同(四)の威力業務妨害につき各累犯の加重をし、被告人女屋につき同法第六三条、第六八条第三号により従犯の減軽をし、被告人青木につき判示(一)、(ロ)の不法監禁と判示(二)の傷害、被告人阿部、同岡部、同石井、同武田、同馬場、同舟生、同渡辺につき、(ただし、被告人馬場につき、前示確定裁判を経た罪があるから刑法第四五条後段、第五〇条を適用したうえ、)判示(一)、(イ)の暴力行為等処罰に関する法律違反と判示(一)、(ロ)の不法監禁、被告人安東につき判示(四)の威力業務妨害と判示(一)、(ロ)の不法監禁、被告人中川、同山本につき判示(一)、(ロ)の不法監禁と判示(二)の公務執行妨害の各罪は、それぞれ刑法第四五条前段の併合罪であるから同法第四七条本文第一〇条により、被告人青木については重い警察官国分利正に対する傷害、被告人阿部、同安東、同岡部、同石井、同武田、同中川、同馬場、同舟生、同山本、同渡辺については、いずれも重いハガチー秘書に対する不法監禁の各罪に併合罪の加重をし、以上、各被告人について、所定刑期範囲内ににおいて、被告人黒羽、同清野をいずれも懲役一年六月に、被告人中村、同長谷川、同松田をいずれも懲役一年二月に、被告人青木、同阿部、同安東、同岡部、同女屋、同石井、同武田、同中川、同中西、同馬場、同山下、同山本、同渡辺をいずれも懲役一年に、被告人飯島、同津金、同舟生をいずれも懲役一〇月に、被告人小林を懲役八月にそれぞれ処することとする。なお、被告人らに対しては、後記のごとき情状が考慮せられるので刑法第二五条第一項により本裁判確定の日からそれぞれ各三年間右各刑の執行を猶予し、訴訟費用については刑事訴訟法第一八一条第一項本文、第一八二条(ただし被告人安東の単独負担の分については、同法第一八二条を適用しない。)を適用し、主文第三項掲記のとおり被告人らに負担させることとする。
第九情状について
本件は、安保改定の是非をめぐり、かつてないほどの深刻さをもつて議論が沸騰し、国論が大きく二分したかのさなかに、いわゆる五月一九日の強行採決が行なわれ、国内の政治情勢は極度に悪化し、民主政治の危機が叫ばれ、安保改定反対斗争は一段とその盛りあがりを見せ、日増しにその激しさを加えて行き、アイゼンハワー大統領の訪日に強く反対する空気も、俄然濃厚となつて行つた悪条件下に、同大統領の訪日日程についての事前打合せのためハガチー秘書が来日することとなり、同秘書に対し同大統領訪日反対の意思を伝達しようとの意図のもとに企画実行せられた大衆行動にさいして発生した事犯である。
安保改定の是非は、国の将来を決定するほどの重大な問題に関するものであるから、十分に議論を斗わせ、これを批判し、その意見を発表しようとする動きのあることは当然であり、言論、表現の自由は、思想の自由とともに、日本国憲法の保障するところである。しかしながら、法の支配するわが民主社会にあつては、その意見を行動に移して表現しようとするばあいには、あくまで法秩序の是認するわく内で理性的、民主的になさるべきであることは当然であつて、法秩序を無視する暴力の行使は、その動機のいかんにかかわらず、絶対に排撃されねばならない。
本件においては、事前において、警察当局の情勢判断の甘さ等による警備、警護面における計画の不備が見られ、また当日の警備態勢についても、デモ隊の変転する動きに応じて臨機に対処して行く配慮の点において欠くるところなしとしないばかりでなく、アメリカ側においても、当日ハガチー車の先導をつとめることになつていた警察官すら慌てたほどに唐突にハガチー車を空港から出発させているのであつて、もしかりに、警察側において事前にデモ隊の動きに応じた適切妥当な措置を講じており、またアメリカ側においても警察側の申入れを聴き、ハガチー車の出発に先き立ち、警察官をして弁天橋付近等のデモ隊を規制させていたならば、少くともハガチー秘書に対する本件事犯のごとき不祥事件は、その発生を見ないですんだのではないかと甚だ惜しまれるのであるが、それはそれとして、いやしくも一国の元首の使者として来日したハガチー秘書に対し、多数のデモ隊でその車を取り囲み、これに投石し、旗竿、プラカード等で乱打し、車体をゆさぶる等の暴力を行使するにいたつたことは、その動機がどのようなものであろうとも、民主主義を標榜して立つわが国民として、まことに遺憾であり、わが国内外各方面に強い衝撃を与え、民主的国際社会における信用を失墜せしめたその結果とともに、その責任は重大であるといわねばならない。しかしながら、他面、本件では、検察官のいわゆる事前共謀なるものの成立は認められず、また、日共および都自連において、本件羽田動員にさいし、国民会議の決定した線を上廻わるはね上がり的実力阻止を計画していたと認むべき証拠もなく、却つて、本件は、いわば大衆行動における暴発的事犯の一種と認むべきものであることは、前に詳細に説明したとおりである。この点はいわゆるハガチー事件なるものの性格を決定づけるものであつて、量刑上特に考慮が払われるべき重要な問題点の一つである。
次に問題となるのは、本件事犯中における被告人らの行動である。そのうち特に注目されねばならないのは被告人松田(当日の川鉄部隊指揮者)、同中村(被告人松田の補助者)、同山下(川鉄青婦協議長)、同小林(日本社会党神奈川県県議)、同中西(神奈川県委員長)らのそれである。右被告人らは、被告人阿部らの判示ハガチー秘書およびその搭乗車に対する暴行、器物損壊行為の共犯者として各起訴されているのであるが、既に説明したごとくこの点についての証明はなく、却つて、右被告人らは、被告人阿部らの前記暴行等が行なわれていたさい、極力これが制止に努めていたことが認められるのである。この事実は右被告人らの罪責の軽重を論ずるにあたつて看過されてはならないところである。もつとも、被告人松田、同中村は、当時ハガチー車の天蓋上に登つてデモ隊の坐込み等の指示をしている事実がある。この点は、まさに非難に値する行動といわねばならない。しかし、また、この点についても、当日撮影された数多くの現場写真を見ると、デモ隊員とは認められない多数のカメラマンらしき人物が、一再ならずハガチー車の車体上に登つており、その登つた順序からいえば、右カメラマンらしき人物の方が右被告人らよりも先であることも明らかである。この点に関し被告人松田は、ハガチー車の上に登るにあたつて幾分心やすさを感じたと当公判廷で述べている。勿論これらの人物と被告人とでは、車体上に登つたという点は同じであつても、その動機目的は全く異なるのであるから、これを同一視することはできないが、国際的礼譲という点から考えるならば問題なしとしないであろう。彼此この間の事情をも対比して考慮すべき点があると考える。この点は、被告人清野、同黒羽についても同じである。
なお、被告人青木、同安東、同飯島、同女屋、同黒羽、同清野、同津金、同中川、同長谷川、同山本らは、いずれも判示のごとく、被告人阿部らの前記暴行、器物損壊の行為に、実行行為者としては勿論、共謀者としても参加していないのであるから、この点も、右被告人らの量刑にあたり、参酌されねばならない。
以上記述したところのほか、各被告人につき、その身分、地位、本件羽田動員におけるその役割および本件事犯の各態様とその中における各自の行動その他証拠によつて認められる諸般の情状が量刑上考慮せられたことはいうまでもない。
第一〇公訴事実中無罪部分について
一 暴力行為等処罰に関する法律違反
(一) 公訴事実
被告人青木、同安東、同飯島、同女屋、同黒羽、同小林、同清野、同津金、同中川、同中西、同中村、同長谷川、同松田、同山下、同山本に対する右各公訴事実は、要するに、同被告人らは、外多数の者と共謀の上、昭和三五年六月一〇日午後三時四五分ころ弁天橋検問所付近において、ハガチー車の前面に立ちふさがり停車させた上、これを取り囲み、「ゴーホーム、ハガチー、ゴーホーム、ヤンキー」等と怒号し、多数共同して車体を激しくゆさぶり、或は車体上に乗つて踏みつけ、旗竿、プラカード等で車体を連打又はこれに投石するなどして同人らに暴行脅迫を加えると共に同乗用車の窓硝子、天蓋、ボンネツト及び尾灯等を損壊(被害額約一三万円位)した、というのであり、右共謀の態様について検察官の釈明するところを分析整理すると、およそ次のごとくなるものと考えられる。すなわち、神奈川部隊、関西部隊ならびに弁天橋の残留学生部隊が、ハガチー車の出現直後「来たぞ、来たぞ」などと叫ぶ声に応じ「その瞬間に」ハガチー車に対し相呼応して一斉に行動を起しているからこれにより、この時点においてハガチー車に関する本件犯行についてのいわゆる現場共謀が成立した、というのである。(冒頭陳述書六二頁、論告一七頁以下、昭和三五年一二月一二日付釈明書(二))したがつて、右暴力行為等処罰に関する法律違反の訴因についても、右の時点において、被告人松田、同中村、同山下、同小林を含む神奈川部隊約四〇〇名、関西部隊約七〇〇名、被告人青木、同清野、同女屋を含む弁天橋残留学生約一、二〇〇名ならびにこれとともにいた日共関係の被告人長谷川、同飯島、同津金、同中西の間に、まず現場共謀が成立し、つづいて現場付近でこの状況を目撃した被告人中川が右現場共謀に加わり、そしてこれら学生部隊を通じ、事前共謀のあつたとされる日共関係被告人安東、ならびに被告人黒羽および同山本ら学生派遣部隊約三〇〇名についても右犯罪全部について着手があつたとするのである。(冒頭陳述書六三頁)
(二) 当裁判所の判断
(イ) 被告人松田、同中村、同山下、同小林、同中西について
証人岩垂寿喜男(八六)、同斎藤正(七五)の各証言によると、被告人中西は、被告人阿部らの本件暴行器物損壊の犯行当時、ハガチー車の周辺にいたと認められる。そして被告人中西および被告人松田、同中村、同小林、同山下においては、判示第二、二、(一)において認定したごとく、右被告人阿部らの前記犯行を制止していたものと認めるを相当とする。
検察官は、「来た、来た」の声と同時に、周辺のデモ隊員は、意思相通じ、一斉にハガチー車の車列に向けて行動を開始したのであつて、そのときに現場共謀が成立したのである、としており、「川労協」の旗を中心とする神奈川部隊の一部デモ隊員が、ハガチー車の車列に向けて左側方より押し出し、右「川労協」の旗を振り下ろした事実のあることは、前に「ハガチー車の停止原因」の個所において認定したところである。ところが、証人本橋順(七〇)の証言、被告人松田の当公判廷における供述、写五5、写六八1、写四7、写一27、弁一37によると、被告人松田は、被告人阿部らが他のデモ隊員とともに最初にハガチー車に取りついたころには、なお弁一37によつて認められる同被告人の待機地点付近に残つていて、ハガチー車に向け未だ行動を起しておらず、また当日神奈川部隊の総指揮者であつた右本橋順も、同人の証言(速記録八九丁)によると、車列が停止した後、ハガチー車の前の方の車に押されて行つたが、これはいけないと思い、すぐうしろの方に脱け出したことが認められるので、これらの事実と前記写真に写されている当時の周辺の神奈川部隊と認められるデモ隊員の状況とから判断すると、前記「川労協」の旗を中心とする一団のデモ隊員は、被告人松田を含むその余の周辺の神奈川部隊デモ隊員とは何等意思連絡を遂げることもなく、前出第五、一、(一)「暴力行為等処罰に関する法律違反中脅迫の訴因について」のところで説示したごとく、ハガチー秘書に対する端的にして爆発的な抗議意思の表明のために押し出して行つたものと認めるを相当とする。これを要するに、制止行動をしていたと認める前記被告人らについては、その制止行動をする以前において、被告人阿部ら本件暴力事犯の実行行為者とその犯行につき共謀を遂げていたと認むべき証拠がないので、これら被告人は、被告人阿部らの判示暴力事犯については、その実行行為者でないことは勿論、共謀共同正犯者でもない。しかしながら、被告人松田らは、ハガチー車周辺で制止行動をとつていたが、容易に効果が現われないので、遂に同被告人および被告人中村においてハガチー車の天蓋に登つて坐りこみ等の指揮をとるにいたつたことは、判示のとおりである。そして、証人高野良男(四六)の証言によると、当日のハガチー車の天蓋部分には、その前部と後部に大きなへこみが生じていたことが認められ、被告人松田の当公判廷における供述に徴すると、同被告人らにおいて、右天蓋上に登るにさいし、天蓋部分を損傷することについての少なくとも未必的故意のあつたことを認められないではない。しかし、写二3、4、5、写二七21、23、41、写二八33、34によると、右天蓋上には右被告人以外に報道関係者らしきカメラマンも登つていることが明らかであつて、前記天蓋部分の損傷は、そのいずれの行為によつて生じたものかについて疑いの生ずる余地がないとはいえないところ、この両者間に右天蓋部分損傷についての共謀が存在したとは到底認めることができないから、結局、右損傷についての責任を右被告人らに負わせることはできない。また、被告人山下につき、証人林信三(五〇)は、「被告人山下は手でハガチー車の屋根を叩いていた」旨の証言をしているけれども、(速記録五。六丁参照)、写二五3および被告人山下の当公判廷における供述等に徴し、右林証人の証言は措信しない。
(ロ) 被告人清野、同青木について
写一八16ないし19、写二八22、写四五22、23を中心にしてその前後の写真を検討すると、被告人清野、同青木ら弁天橋残留学生部隊一、〇〇〇余名が、判示のごとく、ハガチー車前面に取りついたころのハガチー車周辺の状況は、被告人松田がハガチー車後部トランク上に登つて周辺のデモ隊を制止しており、被告人中西、同山下らも同車左側で制止行動をしていて、同車左側に近接していた旗、プラカード等も次第に車体の近くを離れて遠のき、その直前ころまで車体前部ボンネツト部分の右側で「WE BAN U2」と書いたプラカード等で車体を叩いていた行動も漸く静まり、右ボンネツト上に報道関係者らしきカメラマンが、腹這いになつて上がりこみ、車内を撮影しようとして黒シヤツの学生風の人物に制止されているごとき状景であつたことが認められる。そしてこれらの状況から判断すると、右学生部隊がハガチー車前面に取りついたときは、まさに本件暴力行為が終了した直後と認定するを相当とする。証人長瀬晃(二四)、同溝部通夫(二五)、同林信三(五〇)らは、いずれも学生部隊がハガチー車の右側(北側)に殺到して労組員とともに左右からハガチー車をゆさぶつたと証言しているが、(速記録長瀬証人分三七ないし四〇丁、溝部証人分三二、三三、七五丁、林証人分四ないし六丁、三二丁参照)。その学生部隊とは、判示認定にかかる、いち早くハガチー車の停車現場に馳けつけ、同車の右側に取りついた数十名の学生部隊のことであることは、その各供述の内容からして容易に判明する。ところが、証人山本繁(二八)、同田島徹夫(二七)、同柴田信正(三七)は、被告人清野ら一、〇〇〇余名の学生部隊がハガチー車に取りついた後、これをゆさぶり、ハガチー秘書に対する暴行がそのころまで行なわれていたがごとき証言をしているが、(速記録山本証人分二九ないし三一丁、田島証人分五一、五二丁、柴田証人分一七ないし二五丁参照)、これらの証言を些細に検討すると、そのハガチー車がゆさぶられたとする時期については、いずれも被告人松田、同中村が、ハガチー車の天蓋上に登つて、周辺のデモ隊にスクラムまたは坐りこみを指示していたころのこと、としていることが明らかであるところ、そのころは、前記のごとく、ハガチー車周辺の混乱も一応おさまつて来ていたと認められるのであつて、そのころの情景を写した多くの写真とも対照して考察するとハガチー車をゆさぶつたとする前記証言部分は、にわかには措信し難い。
とすれば、被告人清野、同青木らは、右被告人阿部らの本件暴力行為等処罰に関する法律違反の所為に直接加担したとすることはできない。ところで判示認定のごとく、弁天橋残留学生中約数十名は、いち早く現場に殺到し、被告人阿部らと共謀して本件暴力事犯を敢行しているのであるが、前に詳説したごとく、本件ではいわゆる事前共謀は認められず、また右数十名の学生と被告人青木、同清野ら残留学生部隊員との間に右数十名の学生がハガチー車に殺到して行くにあたつて、本件暴力事犯を敢行することについて相互に意思連絡があつたとの確証もないので、右数十名の学生の行為を介し、右被告人らに共謀共同正犯としての責任を負わせることはできない。
(ハ) 被告人長谷川、同津金、同飯島、同安東、同黒羽、同山本、同中川、同女屋について
被告人女屋を除くその余の前記各被告人は、被告人阿部らがハガチー秘書やその車に対して暴行等の犯行を行なつていた当時には、いずれもその現場にはおらず、被告人清野、同青木ら弁天橋残留学生部隊一、〇〇〇余名の者がハガチー車の前面に取りついた後において、その現場に来たものであることは判示第二、二、(一)において認定したごとくである。とすれば、前段で説明したとおり右被告人阿部らの本件暴力行為の犯行はすでに終了した後であることが明らかであるから、右犯行につき右被告人阿部らとの現場共謀の成立する余地がないとともに、いわゆる事前共謀の成立が認められない本件にあつては、これに関係のない被告人中川は勿論、これに関係ありとせられているその余の前記各被告人も、右被告人阿部らとの現場共謀により犯行に直接加担した判示弁天橋残留学生中約数十名の行為を介し、これとの共謀共同正犯の責任を負わせることはできない。この理は、また本件犯行現場に行つた証明のない被告人女屋についても同様である。(なお、被告人清野、同黒羽のハガチー車前部ボンネツト上に登つたことと証人高野良男(四六)の証言により認められる右ボンネツトの損傷との関係については、写二7ないし12、写一五33ないし35、写二五16、18、写二七37等によると報道関係者らしきカメラマン等多数の者が当時しばしば右ボンネツト上に登つていたことが認められるので被告人松田、同中村の場合と同様の理由により右損傷を被告人清野、同黒羽の行為によつて生じたものと認定することはできない。)
(二) 結論
以上により、右被告人青木、同安東、同飯島、同女屋、同黒羽、同小林、同清野、同津金、同中川、同中西、同中村、同長谷川、同松田、同山下および同山本については、右暴力行為等処罰に関する法律違反の事実につき犯罪の証明がなく無罪とすべきであるが、判示第二、二、(一)、(ロ)の不法監禁、威力業務妨害の行為と観念的競合の関係にあるものとして起訴せられたものであるから、この点につき特に主文で無罪の言渡をしない。
二 被告人青木の共謀による傷害
(一) 公訴事実
右公訴事実の要旨は、被告人青木は、外多数の者と共謀のうえ、昭和三五年六月一〇午後三時五七分ころから同四時五〇分ころまでの間弁天橋検問所付近において、ハガチー秘書らの危難を救護しようとした警視庁第三機動隊員ら多数の警察官に対し、スクラムを組んで激しく体当りし、殴打、足蹴り又は投石する等の暴行を加え、もつて右警察官の職務の執行を妨害し、右暴行により、判示警視庁巡査国分利正外二二名の警察官に各傷害を負わせたほか、警視庁巡査部長松元貞清に対し治療約一週間を要する右前額部挫創、同巡査大橋誠仁に対し治療約一〇日間を要する上口唇挫創外傷性歯牙破切による歯根膜炎、同巡査中沢章に対し治療一週間を要する右前胸部打撲(血腫)の各傷害を負わせたというにある。
(二) 当裁判所の判断
よつてまず公訴にかかる松元貞清および大橋誠仁の受傷状況について調査するに、同人等の検察官に対する各供述調書および判示第二、二、(二)の公務執行妨害、傷害の欄において認定した事実等を総合して判断すると、同人らは当日いずれも第三機動隊の一員として行動しており、同人らの各受傷した時期および場所はそれぞれ同機動隊が事件の発生を望見し、現場にかけつけるため、稲荷橋方向から馳足で判示のとおり柵を越え、ハガチー車に向う途中、あるいは天皇道路入口の北方付近ランプ内で一旦部隊ととも停止したさいに、投石を受けて受傷したものであることが知られる。とすると、被告人青木らとハガチー車を取り巻くその周辺のデモ隊との間に、未だ判示のごとき公務執行妨害の現場共謀が成立していない段階における受傷であることが明らかであり、しかも右警察官らがいずれも直接被告人青木の投石によつて受傷したとの証拠もないから、同被告人に対し、実行正犯としては勿論、共謀共同正犯としても右投石の結果について責任を負わせることはできない。つぎに、第五機動隊警察官中沢章について検討する。証人中沢章の証言によると、同警察官は、同日午後四時一〇分ころ第五機動隊とともに弁天橋西詰から東詰に向いデモ隊を排除していさい、デモ隊から投石を受けて受傷したことが明らかである。右事実と判示認定事実を総合して判断すると、右の投石は、弁天橋西詰の被告人女屋らデモ隊による行為であつて、被告人青木が右弁天橋上のデモ隊に参加していたと認むべき証拠はない。(証人田中義雄(二一)は、被告人青木が右手にメガホンを持ち、坐りこみ学生のうしろから二〇〇名以上を指揮して弁天橋西詰に行き、スクラムを組み、その後暫くして、その方面から機動隊が入つて来たのを見たと証言している。(速記録五三、五四丁参照)。しかし右田中証人は同時に被告人青木は、その前ころハガチー車包囲陣の後方多摩川寄りにいた宣伝カーのそばで坐りこみ学生のうしろで指揮していたとも証言している。ところが、被告人青木は、被告人清野とともに弁天橋残留学生部隊一、〇〇〇余名の中にあつてハガチー車に取りついた後は、その後第三機動隊等の実力行使があるころまで終始ハガチー車に接着または近接する地点にいたものであつて、この事実は証拠として提出された多くの写真によつても明らかである。そしてまた右証言中二〇〇名以上の学生が弁天橋に馳け戻つたとする時期についても、証人長瀬晃(二四)の証言、写六一70、71に照し疑問があるのであつて、前記田中証人の証言は採用し難い。)とすれば、右中沢章の受傷についても、また被告人青木にその責任を負わせることはできない。以上の理由により前記三名の警察官の受けた傷害については、被告人青木は実行行為者としては勿論、共謀者としても、その犯罪の証明がないから無罪とすべきところ、判示第二、二、(二)の公務執行妨害の事実と観念的競合の関係に立つものとしての起訴にかかるからこの点については、特に主文で無罪の言渡をしない。
(結び)
本件事犯およびいわゆる安保六・一五事件を境として、あれほどにも燃えあがり、燃え拡がつていた安保斗争が急激に冷却して行つた原因は奈辺にあるか、大衆行動を企画し指導するものにおいて十分検討し反省を要する点であろう。大衆行動にさいして暴発的事犯が発生したばあい、それは暴発である、として軽くすませておくことはできないのではないか。暴力の行使は、それがいかなる契機、理由によつて行なわれたものであろうとも、良識ある一般国民の厳正なる批判を浴び、糺弾されるものであることを知るべきである。本件事犯発生後、国内の輿論がどのように変つて行つたかを顧みるときは、思いなかばに過ぐるものがあるであろう。いうまでもなく本件事犯の背景には深く省察すべき数かずの問題が存するのではあるが、このさい特に大衆行動に関与するすべての人の自覚を求めて、この判決の結びとする。
(裁判官 八田卯一郎 山崎茂 向井哲次郎)
(別紙) 受傷警察官一覧表、証人尋問調書一覧表(いずれも略)